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2005年の締めくくり 2005/12/31
 バッタバッタと気が付けば31日になった。師は走り去ったが、新年を迎える実感は未だない。ここから0時に向けてぐっとテンションを上げようと思う。

あと20分。

  今年の一年というのは、まさにポロリなし!紆余曲折だらけの1年大会といった感じだったなと思う。そう自分で書いて、相変わらず遠いダジャレに自分の切れの悪さを感じるな。…まぁいいか。あと20分。

  僕にとって2005年の上半期は苦しい時間だったと思う。呼吸をする度に、生命を費やしている恐怖感があった。窓のカーテンを開ける度に、自分の心の窓から唄が陽気に手を振って出て行ってしまう恐怖感があったりした。自分で言うのも気持ちが悪い話だけど、よくもまぁ、ここまで復活したなと自分でも思う。それは矢っ張り出会いが僕を導いてくれたお陰だと思う。

  出会い、そう出会いの再発見だったと思う。それは新しく出会う人、事柄もそうだけど、再会という出会いも多かった。人にも事柄にも再会した。

  来年は絶対にいい年になる。みんなが幸せな年になる。

   キャシーズソング、山田社長、つーさん、太一君、有難う。

  みきさん、有難う。

呑気放亭のみなさん、有難う。

今年、本当に有難う。本当に出会えたみなさんに感謝します。

新年まで、あと15分。みなさん新年のズンビしてください。

歩く 2005/11/20
 ここんとこ、冷たい風が空をよく掃除をしてくれるから綺麗な夜空が広がっていく気がする。寒いのは嫌いだが、それなりに悪くない。

  日ごとに見る星がどんどん近付いている気がする日々があり、また逆に手元からスルスルと星が離れていってしまうんじゃないかって気がする日々もある。

  Qちゃんは今日、1位になった。同郷の人間である事も重なって、僕はとっても嬉しかった。ラスト5kmと上り坂は涙なくしては見れなかった。頑張っている姿は感動するなぁ。

  Qちゃんが「暗闇」について話していたけど、これは人より早く走る人だからこそ遭遇する不安なんだろうなと思った。自分の先人となる人がない、先駆者は多大な不安と共に歩むのだと思う。

  真っ白な、まだ誰も踏み荒らしてはいない雪の野原。自分が道を探り当て、また危険な障害物を回避しなくてはならない。誰も通った事のない道に、的確なアドバイスを持つ人はいない。強い風当たりの中、それでも前進する。

  誰もがその雪原を持っていて、またその雪の下には自分の進むべき道を持っている。誰も通った事のない自分だけの道を誰もが平等に持っている。その風に向かって、走れ、走れ、その道にしか答えはないものと思うよ。

ダンディズムT 2005/10/31
 夕飯は商店街の中華屋で。四人掛けのテーブルに男一匹、チャーハンと青島ビール。眼をむいて雑誌を見ながら無心に喰らう後姿はたくまし過ぎる哀愁だ。それを見ていた僕はウッと喉の奥が締まる想いがする。必死に喰らう後姿には人を寄せ付けない強さと寂しさがある。

僕がうら若い女だったら、

  このおじさんを家に招きいれ、精一杯の料理を食べさせ、そして今日あったことの全てを気持ちよく話してもらうだろう。

でも、この男の後姿は決して女の瞳に映る事はない事かと思う。

  だから、夜にあぶれ、夜のカウンターに座り、チビチビと馴染みの客や女将との会話に明日を見出す男が増加するのだ。

女はこれをくだらないと言うだろう。

  家庭があろうとなかろうと、そうして男は世のためになっていく。だから、僕は、たまらなく後姿に惚れる。男は黙って夕飯をカッ喰らうに限る。ダンディズムは眠らない男達を世に輩出し続け、豪勢な歴史を形作っていく。皮肉な話が、その豪勢な歴史の石塁を築いた男達の大半は、どこぞの野辺に朽ち、一文にもならないふんどし一丁で倒れていった訳だ。

今日喰える夕飯をただ無心にカッ喰らうのだ。

  今日、夜道を歩いたら、商店街のドブの上に、人工の髪の毛のカタマリが夜陰にまぎれて転がっているのを見つけた。よっぽどの事情があったのだろう。

主はなくとも、そのカタマリは一生懸命に秘密を隠しているように見えた。

Long Long 顎 2005/10/20
 昨日から「まんが日本昔話」が再放送され始め種田。僕はいたく感動したのです。『かぐや姫』と『ちょうふく山の山んば』の二話がやってい種田。
  むか〜しむかし、あるところにおった僕は絵本付きのレコードを持っておって、この二つのお話は何回も何回も聞いておったそうな。だから、セリフや効果音までしっかりと記憶していて、放送と合わせて話すことができ種田。絵も声も何もかも昔のまま、本当に昔話だったから嬉しかったなぁ。毎週の楽しみになりそうだ。

  ちょいちょいと忙しくなって、また季節も少しは寒くなったのかな、バイクのエンジンが動かなくなる季節になってきた。

  まぁ、こんな時は無駄に気張らない事だし、抜き過ぎない事でしょ?

  もうこれっきりで三十路の話はやめようかと思います。だから最後に一つ。こないだ公園で散歩していたら4,5歳のガキンチョに「このオジチャンにボール投げてもらう〜」と言われた。初めて本域で「おじちゃん」と呼ばれた。心中『手加減しないガキだ』とガッカリしながらも、「じゃ、いくぞ!それ〜」とボールを陽気に投げてやった。ボールに群がるガキンチョ達を見る僕の肩は心なし落ちていたという。後で友人が「子供におにいさんって概念はないから」と慰められた。子供にとって高校生から上の人は、皆おじちゃんらしい。なるほどね。

  いい具合に気がミゾオチ辺りに落ち着いてきた。
  大阪、行くからね。
  名古屋に行くからね。
  ヨロシクね。

  こんなちょいとした忙しさの中では、難しいこと言おうとしちゃいけないよ。

  さて、僕は楽しく西へ、そして東へ、あぁさてさて、あさって。あぁした、こうした、明日。口から突いて出るまま、気まま、ご挨拶じゃったぁ。

夢まぼろし 2005/10/11
妙な夢を、頻繁に見る。
見る割に、覚えてないものが多いけど。頻繁に見ていることだけは実感がある。

  愛情を注いで育てたガジュマルの木に、取り込もうとした洗濯物があたって葉っぱがボコッと落ちてしまいガッカリする夢や…。

  家で母と父とギターの先生で鍋をつつき、僕は鍋の中のカボチャ(ウツツでは僕の嫌いな食物)を無心に喰らっている。そんで、父親に「いやらしいことばっかり考えとると頭が腐る」と苦言される(ウツツの僕に自分で戒めているようだ)。そして、苦言を言われた僕はカボチャをモグモグさせながら窓の外を見ていた。窓の外では河が氾濫して大洪水になっていた夢…。

  デパートを歩いていると突然“人間ダーツ戦争”に巻き込まれる夢も見た。四方八方から銀で出来たダーツで狙われ、必死に逃げた。僕はおもちゃ売り場に逃げ込み、そこにあったダーツを取ると、反撃をした。僕が投げたダーツは一直線に或る人のこめかみにシュコッと、深々と刺さった。その人は気をつけの姿勢で固まったまま、カタカタ踊って倒れた。後味の悪い思いで眼が覚めた。

  誰か、夢判断してくれ〜!!

ツアー日記 2005/10/6
 昨日の夜、何気なく雑記帳を開いたら、おととしのツアーの日記が出てきた。9/29の『傍ら日記』にもあるように徳島での行動がウル覚えだったものが、この日記によってある程度解明された。今の記憶で日記に手を加えると事実と多少変わってしまうだろうから、日記をそのまま載せてみます。徳島での僕と太一君の日程はこうだったらしい…。


2.24.徳島

  前日は名古屋エルフィッツオールでライブだったため岐阜の実家に泊まり、ここからまた出発。名古屋に電車で向かい、太一君と待ち合わせて午後三時、徳島に向かう。明石・淡路大橋を渡る頃には日が暮れていて、景色は楽しめずに終わる。徳島到着後、夕食をとろうとするが手ごろな店がなかなか見つからない。客引きが通行人より断然多い。或る客引きのオヤジが親切に、ここらのキャバクラには入るなと忠告してくれた。結局、阿波尾鶏を食べる。そこで語り合う事、割と深し。祖谷(いや)という蕎麦焼酎を呑む。その後「おたべ」という開店したての小料理屋に入る。「白水園」という古めかしいホテルに泊まる。ベットが三つ。ランプの傘のしみが大変情緒がある。


2.25.徳島・香川

  午前、徳島ラーメン(いのたに)を食べる。感動。すき焼きっぽくて好み。その後、為す事なくうろつく。通りすがりの丈六寺という寺に入る。室町時代に建造されて、あまり手が加わってないからとてもいい寺。奥に観音坐像がある。この観音の身長が一丈六尺あり、これに由来してこの辺りは丈六という地名になったようだ。血天井を発見。長宗我部元親に暗殺された新開何某の血痕だそうな。血の手形、足形が戦国時代のものかと思うと興奮する。いいものを見た。FM徳島出演(生唄【振り返りもしないで】)、DUKE CD Shopに挨拶、その後食事。祖谷そばを探すが見つからず、結局たらいうどん、トッピングでフィッシュカツを食べる。徳島のデパートのポスターに誕生花が書いてあった。


10/12:トウガラシ:花言葉は旧友、生命力

トウガラシって…。香川に向かう。夜、香川入り。バッティングセンターに寄る。ピッチング114km。ホテルに入り、手紙を書く。


以上が、足どりでした。いや〜、しかしこの二日間はあまり仕事をしていないね。僕の日記が仕事外の事ばかり書いているからそう感じるのかな。

丈六寺で撮った写真です。




くしゃみが止まらない。 2005/10/1
 昨日から原因不明のくしゃみに襲われて難渋している。午前中はムズムズ程度だったものが、夜になって連発するようになった。あまりにくしゃみをすると酸素が過多なのか、逆に足りないのか、ぼーっとして思考を奪われてしまう。嫌なもんだ。

さぁ、ゼッケン119番、山口選手の演技。

今日は体調も風邪気味みたいですし、
記録更新、期待できるんじゃないですか!

まずは軽快に鼻をムズムズ動かし始めました。

『…ックショ〜ン!』

まず一つ入りました。どうですか山口のくしゃみ?

えぇ、身体全体がくの字になっていましたし、軽く宙に浮いていましたので、大変綺麗なくしゃみですね。最初から大技が決まって緊張がとれたんじゃないですか?

そうですねぇ、期待できそうです。

欲を言うと、もう少し大きなひきつけで助走をとってからくしゃみにいくと審判も点数を入れやすいですね。

『…はぁ、はぁ、はぁ、…。』

さぁて、山口がまた次のモーションに入ってきました。随分これ、ひきつけが長いですね。

はい、これはくしゃみが出そうなんだけど、意外に出すまでに時間がかかるという技ですね。難度の高い技です。

『…はぁ、はぁ、はぁ、…。』

あぁ、完全に鼻が詰まりましたねぇ。

だいぶ、悩ましい表情になってきましたよ!

さぁ、いくかっ、アゴも上がって万全な状態だがっ…!?

『…ふぅ〜』

あぁ、止まってしまったぁー!

駄目でしたねぇ、出ませんでしたねぇ。

残念!惜しかったですねぇ。

…ですが、まだ、まだね、後半の演技で充分取り戻せるミスじゃないですか。

『…!?』

おっと、表情が突然変わった、口を開けました。

あ、時間差かもしれませんよ!

『ヒッ…クショー、クショー、クショー、クショー、
  …クショー、…ックショーイヤ〜』

6連発!
くしゃみ連発記録を更新です!

さっきのをミスと見せかけといて、時間差で6連発を狙っていたんですね!

これは魅せます、プリンスの演技です!これぞ横隔膜のケイレンという演技です!
もう口で息をして、だいぶ苦しそうですが…

頑張れ!

まさに日本のくしゃみです。世界に通用するか、頑張れ山口!

昔話は残酷だよ 2005/9/26
 むかし、『トムとジェリー』というアニメの絵のタッチが新しくなって何だかとてもショックになった事がある。慣れ親しんで、大好きだったトムとジェリーがまったく別物になって、線も細く、貧相な猫とねずみになったのが悲しかったっちゅう思い出。これと似通った思いは最近よく感じる。ドラえもんなんかもそう、今から見始める子供達にとっては今のものがドラえもんだろうけど、僕にとっては矢っ張りどこか頼りない。逆にサザエさんは声優さんは多少変わったけど、タッチは相変わらずでどこか前時代に取り残されている感がよりサザエさんらしくていいと思う。これは僕が保守的だという事ではないと思うのだよ。
  僕が子供の頃でも、矢張りその当時の大人達の子供の見るものに対する頼りなさはあったんだと思うんだよね。例えば『ゲゲゲの鬼太郎』なんて僕が見ていたリバイバルバージョンより昔の鬼太郎の方がはるかに不気味で恐い感じがする。なんだか、時代を経過して新しくなっていくものは、だいたいが子供の教育上を考えて無駄に可愛らしくなり、現実味のないキャラクターになっていると思うわけさ。

  今日、『まんが日本昔話』のビデオが出るってテレビのコマーシャルでやっていたけど、この絵があまりに可愛らしくって情けなく感じた。僕が見ていた頃の『まんが日本昔話』はもっとくっら〜くて寂しい〜絵だった。子供用だからって何で可愛らしくする必要があるのかと思う。

  昔話では実に多様な情緒が含まれていたと今になって僕は思うのだ。「花咲か爺さん」のポチが意地悪爺さんに撲殺されるシーンなんて、ポチがキャンキャン啼いてとってもリアルに残酷さを伝えてくれたし、「力太郎」では爺さんと婆さんが溜めに溜めた垢を落とすシーンでモリモリ垢が落ちてくる感じがとってもババッチィさを伝えた。「姥捨て山」では母思いの貧乏青年が泣く泣く山に老母を捨ててくるシーンで、背に負った母が息子の帰り道の為に枝を折って道しるべを作っている音がとても悲しかった。「ふるやのもり」ではコソコソ泥棒が怯えている感じが、泥棒って惨めだなぁと思わせた。「カチカチ山」では狸がお婆さんを殺してお爺さんが悲しみにくれ、復讐を誓った兎は執拗に狸を追い詰め河で壮絶な溺死をさせる。もう血みどろのあらそいだ。昔話は結構残酷で虚しい結末になるものが多い。もともと人間はナマモノなのだから、こういう酷な教訓を子供のうちから親しむのはいい事だと思う。正義のヒーローは毎週確実に怪獣を殺害している。殺害している事実を可愛らしい倫理オブラードで隠そうとするから駄目なんだと思う。見てくれのいいところしか見せず、多角的に物事を見せないのは矢っ張り良くない。
  僕はそういったどぎついアニメや昔話を見て育ったけれど、人を殺したいなんて思ったことは一度もない。むしろ、その恐さ、虚しさはそういったものが教えてくれた。

  僕は古いバージョンの「まんが日本昔話」のビデオなら買い集めたくて仕様がない。今でも名作だと思っている。

忘れること。 2005/9/19
 昨日は、Big MouthでLIVE。お店に入って、リハーサルをし終えて早く暮れたがる空を見て、秋まっしぐらと思った。このお店で初めて唄った頃の事を不意に思い出して照れくさくなった。長いこと唄ってきたけど、自分で唄が良くなってきたと思えるようになったのは、ここ一、二ヶ月くらい前からかもしれない。何とジリジリ摺り足な成長ぶりかと思うけど、僕の性格からしてよくやっていると言ってあげたい。でも、そんなノスタルジックな想いでは今の時間に乗り遅れてしまう、LIVEって瞬間に乗り遅れたら僕はそれこそ今日下北にきた意味がない。
  そんな思いでちょっくら一人で珈琲タイムをとり気持ちの入れ替えに出た。下北ではよく入る喫茶店で、いつもは適度に人が席を埋める居心地のいい喫茶店なんだが、昨日は混んでいた。汗にまみれて店員さんが右往左往して、一向に僕の注文をとってくれない。どころか、メニューすら持って来てくれない。声を掛けようかなとも思ったんだけど、夕飯時に猛烈に働きまわっている店員さんを、たかがアメリカンコーヒー一杯で呼び止めるのは気の毒な気がして待っていた。何しろ店員さんは二人しかいない、ホリデーにあるまじきシフト体制だ。僕がアメリカンコーヒーにありつくまでに20分近く掛かった。そして本を読んでは気をそらし、また読み始めてはボーッとしを繰り返して、ノスタルジックはどこへやら完全に忘れる事ができた。

  僕の『忘れる』という言葉は、僕の人生に大きな課題になる事だと思う。

  記憶って面白いもんで、同じ場所で同じものを見ても、人によって忘れてしまうものが違う。僕は人が忘れられないような辛い出来事でも、スッカリ忘れてポリシーのかけらもないように過ごす事ができる。だから僕には反骨精神という言葉がイマイチ実感が持てない。また、この現象はともすると薄情な人間に思われるようなところがある。でも、その半面で強烈に脳裏から離れてくれないものが沢山あったりする。それは決まって、人から見ればミミッチイ出来事しかない。
  両極端にある『忘れる』『忘れられない』だが、どうでもいいミミッチイ事を強烈に『忘れられない』という事が、反面にある事を記憶に置いておけなくさせて『忘れてしまう』のだと思う。僕のささやかな脳細胞の容量は簡単にオーバーしてしまう。

  僕は最近富に『忘れる』事に心掛けているなぁ。僕は『忘れられない』性格でどれだけ周りの景色を見過ごし、損してきたかと思う。その損害は人より断然多い人間だと思う。歩いたら歩いただけの情報が飛び込んでくる、歩き続けるのなら忘れていかないといけない。古い記憶で頭が一杯のまま景色を見て何も味気のないものにしてしまうし、過去の光や悔いを見る後ろ向きの人間になってしまう。『忘れない』のは動かないと一緒だと思うし、『忘れる』作業は成長の準備だと思ったりする。
  人の前で、僕が自分という範囲を忘れてしまえたら人の想いを聞く事が出来るだろう。そんな理想があって、ステージに立つ。僕の成長は『忘れる』事から始まる。
  なんて言って、昨日ステージが終わって終電に走る頃には、ライターやらタオルやらBig Mouthにスッカリ忘れて家に帰ってきてしまった。『忘れ』過ぎるのも問題かもな。

女心って、秋の空? 2005/9/12
 今日は一転して青空。突き刺す陽射しにまだガリガリ君が食べれるじゃないかと汗かきながら思います。うれしや。
  でも、まぁ、夕暮れになんてなりますと、ちょいとは涼しく、あぁ秋空…。

  女心は秋の空なぁんて言いますよ。
  ホニホニそう思える。
  酸いも甘いも噛み分けた男、じっと手を見る。
  中指に青いインク。
  箸の持ち方も悪いが、ペンの持ち方もよろしくない。

  そう、今日ふっと思い出した事がありました。何の脈絡もなく一昨年あたりのツアーで行った岡山の風景。僕は何故だかイトーヨーカドーのだだっ広い駐車場を暇つぶしに歩いていて「あれ、あすこには激辛ラーメン屋さんがあるぢゃないか」だの「フレンチクルーラーに埋もれてみたひ」だの勝手な事を考えていました。でも、さすがに駐車場の周りを歩くのは退屈で、しかも何故そうなったのか覚えてませんが一人で歩いていたのです。
  不意に通りかかった家は二階建てで、外階段から二階に上がれるようになってます。その鉄の階段の中ごろに一人、そして二階の玄関前に一人、女性が居ました。スカートが夕暮れの風に涼しく揺れていて、その二人の女性はおそろしく白く、おそろしく美人でした。また何を話すでもなく静かに微笑をたたえ、二人は何か嬉しさを隠しているように見えました。装い、黒髪、身にまとう品の良さから僕は二人を姉妹だと思いました。
  通りを歩いていたのは僕一人。でも彼女達の視線はずっと遠く、足元に通り掛っている暇つぶしに飽いた僕の姿など眉のはしにも映らないよう。そして、矢張り嬉しさを隠して二人とも同じ方角に何かを待っている様子でした。その時の僕は太一君と男二人旅の真っ最中で旅塵によごれた心でもありましたので、その光景にはっと息を飲み「この二人がお茶のCMに出たなら、そのお茶の売れ行きは国家予算をしのぐほどのものになろう」と直感しました。
  僕がそこを通り過ぎて二、三歩のところで、不意に後ろから彼女達の嬉しそうな悲鳴があり、そして小川の流れるような笑い声が聞こえだしました。僕はつられて振り返ると、自転車に乗った青年が彼女達の階段の下ではにかみながら頭をかいています。『青い山脈』に出てきそうなほどの好青年。彼女達が嬉しさを隠して待っていたもの、その彼が来たら宝物箱の蓋が開いて三人ともが嬉しさを見せ合っている。
 
  秋の空のように頬を赤らめて、
  …ムゥ女心かぁ。

  まさにそこは古き良き日本を描いたモノクロの映画みたい。僕は嬉しいやら、羨ましいやら、寂しいやら少しホームシックで、まただだっ広い駐車場を歩き続けました。

  で、何で今日、また忘れ掛けていた記憶の糸がつながったのか分かりませんが、こんな事も思い出しました。

  僕は妹がいますが姉はいません。僕は兄でした。ただ親戚には二人姉妹の姉があり、また姉と思い、そこでは甘えていたように覚えています。小学校の時に妹と電車に乗って姉ちゃんの家に遊びに行き、「ほら、晶。家の裏の林には野生の鶏がいて突っつかれるよ」と教えてもらったり、一緒にブーブークッションを仕掛けて驚く伯母さんを見てキャッキャと遊んだりしました。それとか、僕が「食べたばっかりなのに横になったら牛になるよ」と言ったら「食べた後すぐに横になると消化にいいんだよ」と教えてもらい一緒になって畳の上で転がって伯母さんにたしなめられたりもしました。当時の僕は姉ちゃん達が憧れの美人姉妹でしたから、その教えに忠実でありました。だから今でも僕は食べた後すぐにコロンと寝っ転がります。そう、あの頃美人だと思っていた姉も、今や「美人やと思っとる、若い姉やと思っとる」と言葉に出さねば殴る蹴るの暴行を加えられます。心を込めて言い過ぎると嫌味にきこえてしまうのか、もう一つバシッと叱られます。
…この女心も秋の空かな。
  なんてお転婆な姉かと思いますが、洒落のきいた姉で今でも頭が上がりません。おっと、言い忘れるとまた叱られてしまう…美人で自慢の姉だと今でも思っています。なぁんちって、イヤイヤ。

  なんだか今日は脈絡のない事を、取り留めもなくなく思い出す日でござんした。

選挙の日 2005/9/11
 今日は楽しい選挙の日だった。テレビなんかで見てて、僕は自分の住んでいる地区が注目の有名な選挙区だと思い込んでいたのですが、1区違いでした。午後になると風が強くなり、外で日向ぼっこさせていたガジュマルの木(木なんて呼べるほどのものではなく株なんだけど)が台風中継のリポーターのようになっていたから、慌てて家の中にいれてやりました。で、僕が投票に出掛ける頃にはシトシト雨が降り出していました。傘を持って出掛けた僕もガジュマルのように今にも曇り空に飛び立ちそうでした。

  僕の行った投票所は小学校の一室に設けられていました。僕は投票よりも、それが嬉しかったなぁ。小学校の校舎に入るなんて、小学校を卒業して以来だよ。世の中はアンチエイジングの流れで、皺伸ばし、皺伸ばし。でも、こういうところは偽れないよな「へぇ、懐かしいなぁ」と呟いてしまうエイジなのさ。廊下に貼り出された夏休みの自由研究を読んでると結構面白いなと思いました。『僕は消防署の仕事を見に行きました。消防士さんのふくは赤と青とオレンジ、あとみをまもるためのふくがありました。消防車と救急車の仕事を説明してもらいましたが、救急車はと中でよび出されて行ってしまいました』とか『バスの車庫に行って、バスの仕事を見てきました。バスをあらいました。窓から少し水がもれてしまいました』なんてありました。ただ、意外に自分の名前を漢字で書けてない子が多いのが気になりました。今こうして選挙して、国政を考えるのは、まさにこの子達が大人になった時の為なんだよなぁ、と思うのです。

  今僕等に施行されている政治や問題は僕等が小学校の時に行われていた政治の結果で、賜物なのでしょう。郵政省、道路公団も無駄遣いをする人がいなければ誰もなくした方がいいなんて思わないし借金に増税だぁなんてならない訳ですし、こんな時間と労力を割かなければいけない問題じゃなかったんじゃないかな。まぁ、この選挙の労力は実に無駄だ。真面目に地域の人と結びついてきた局員さん達に本当に申し訳ない話だよね。でも、無駄遣いにあぐらをかいて保身に勤しむ人達がいかにも病根になってしまっているんあだろうな。あの爺さん方の無駄遣い何億円で若い人達をどれだけ雇えた事か。やっても報われない感や不公平感はどうも日本アイランドの気候をジメジメしたものにしていて、夢の実現より生き方の無難を求め、無気力・無関心という防衛策をみんなが持ってしまったところもあるような気がする。夢や希望も本来、困難な狭き門であってはいけないんだろう。人を育てるという事も、この小学校に設けられた投票所で考えたりして、ムフッ。

  僕は中国に留学した経験があって、少しは海外の風に接してきた訳です。そこで思うのは、日本という国が、いかにも隣近所と仲が悪い事なんです。僕が中国に留学してつくづく思ったのは、僕と同じ世代の中国の子達。僕も彼等も戦争した経験はなく、初対面に何も背負うもののない好奇心の固まり同志なんです。でも、戦争を経験した世代の人達が上手に負の遺産を残してしまった為に、“侵略”や“戦火、横暴”にまったく実感のない者同志で、それについて暗い気持ちで話し合わなければいけない。こんな事で解決できる問題はない訳です。例えば靖国神社の問題だって、あそこに戦争を悔いる気持ちが本当にあるのならば、全てを合祀にするべきなんです。つまり戦争の犠牲になった全ての日本人、在日韓国・朝鮮の人々、中国の人々、全ての慰霊を込めた神社ならば、今中国や韓国から非難されている事は一気にひっくり返るでしょう。「日本の総理大臣は8月15日、終戦記念日に靖国神社に参拝するべきだ」と言われ、問題は途端に解決だ。でも、それができない日本アイランド根性がある。

  とにかく、これ以上、次世代に任せないことでしょう。今、白髪になって余生を考え始めた政治家の方々が沢山の議員年金を貰っていながら、この問題に本気で取り組まないとすれば、今の小学生達に任せりゃいいやって言ってるようなもんなんだな。希望に満ち満ちた日本アイランドを一度見てみたいもんです。

お久し振り 2005/9/6
 八月は、瞬きする間に走り去って行った。
  巷のガキンチョ達の夏休みは既に終わっている。お陰で近所の道は歩きやすくなっている。こんなに忙しさに実感をもった事はないと思う。今までの忙しい時というのは、必死になりすぎて周りの景色も堪能する事なく過ぎる事が常だった。終わってみて振り返り「あ〜あ、何も覚えてない」という事が多かった。けれど、今年の夏で、そこからは成長できた気がする。な〜んて言いながら、この慕夜記は完全に夏休みをとった訳で、待っていてくれた方々には大変申し訳ないです。

  夏休みは終わり、夏の宿題も着々と片付いてきた。虎視眈々と秋を始めよう。

追伸:
  みきさんの『radio・ほっこり洞』で一緒にLIVEで演奏した“ヨダカの星”を聴いたら、涙が出た。ピアノっていいなぁ…、みきさんがいいのかぁ…なんて考えてた。確立した演奏スタイルを持つ本当のミュージシャンと演奏を共にするのは、とっても難しい。自分の曲や演奏が、その方の演奏のポテンシャルを下げやしないかという不安と戦いながら毎回挑んでいる。3・4年前ではできなかった事が、知らぬ間に自分でも一つずつ階段を昇っているのは実感できた。人と演奏する自信がついたのは、まさに今日『radio・ほっこり洞』を聴いてからだ。

あっちこっちステーション 2005/7/9
 今日、僕はバイクに乗って信号待ちをしていた。僕とビラーゴは交差点から四台目くらいの位置だったと思う。信号が青に変わって前の車がソロソロと動き出したので、僕は左手でクラッチを少し開けると共に右手で多めにアクセルを吹かし、右足のブレーキを徐々に外しながら左足でギアをセカンドに移せる状態にした。
 何気なくやっているがこのバイクの走り出しの四点操作はちょいと忙しいものがある。自分自身が上手くビラーゴの機関になってやらないとノックしながら発進してしまうし、僕のビラーゴは古い奴だからロウからセカンドに上げる左足が弱いとニュートラルに入って空吹かしの状態になってしまう。バイクは身体を露出してる乗り物だから本当に気を付けないと、ノック、ノックでヘブンス ドアーになってしまう。よそ見なんてもってのほかよ。
 だから今日、その交差点でも神経を使いながら発進し始めた、…ところにぃ!交差点の歩道を歩いていたオジさんが大声で話し掛けてきたんだ。勿論僕にぃ。

「スイマセ〜ン、駅はどっちぃ?」
コンサーバティブな背広を着たロマンスグレーの髪に眼鏡を掛け汗をかいたオジさんがぁ、にこやかに道を尋ねている。勿論僕にぃ!

 歩行者が道を尋ねる場合、だいたい地元のお店の人か同じ歩行者に聞くもんだ。見た感じ聞いても正解を知っているであろう確率73%以上の人で『よし、聞いてみよう』と思うもんだ。こんな人が溢れた都会の交差点で、まかり間違ってもバルンバルンいっている通りすがりのバイカーには聞かないでしょう?ましてやそのバイカーと古ぼけたバイクはヒーヒー動き出している。並み居る人ゴミの中から僕を選んで聞いてくれたのは嬉しいけどぉ…。

「あっちぃ?こっちぃ?」
そのオジさんはさすがに僕が忙しく発進操作をしているのを見て気の毒に思ったのか、走りながらでも答えれる二択式に問題を切り替えてくれた。がぁかし、オジさんは具体的にどこの駅に行きたいのか言っていない。オジさんとしては、この辺りで一番近い駅はあっちかこっちか教えて欲しいっていう軽い気持ちなんだろうけど、僕はその瞬時のすれ違いざまに、この辺りは何ていう街で一番近い駅は何線の何駅だ?あれっ、地下鉄が通ってたっけ?とするとあっちだっけ?こっちかなぁ?あぁ、わかんないやぁぁ!ハイッ、ジャンカジャンカ、ジャンカジャンカ…、と多岐に渡って判断しなければならない。それぇはぁ、無ぅ理ぃっ!でもオジさんの屈託のない笑顔をヘルメット越しに見ると何とか答えなくちゃいけない気がして…。
 心の中で
『あぁ、このオジさんは全くわかってない、走っているバイクに話しかける無謀さなんてちっともわかってやしない。きっと箱入りのピカピカなお坊っちゃんで育ったオジさんなんだ、そんな肌つやしてる。多少世間外れしたところが可愛らしいじゃないか。あぁ、無視しては行けない。でも僕はこの近辺に詳しくないから、駅があっちなのかこっちなのか、どっちなのかわからないんだ。あぁ、どうしよう。わからないなら、わからないと答えた方がいいよな。あっ、そうこうしているうちに後続車が迫っている。車の流れに逆らえない、オジさんの為でも逆らえない、オジさんの為に何か一言でも伝えよう、オジさんの為にぃ』
「うぅ、あっちで〜すっ!」
と、手が離せないので、アゴで指し示して言ってしまったけれど…、あれは嘘です、ゴメンナサイ。とっさの情にほたされいい加減な事を言いました。あの純粋無垢なオジさんが駅に辿り着けないで未だに僕を信じて迷っていたらどうしよう。あぁ、本当にゴメンナサイ。
 この交差点を通り過ぎた時の気持ちは、きっと閻魔様に審判され三途の川を渡る時こうなるだろうって思いだった。何て言うか、とっさの時とか、全くの素の時とかの行動で自分の正体を知ってイヤーッって思うっていうか。「イタイッ!」って悲鳴を上げた子供の手を思わず離してしまった女性に「あなたが本当のお母さんだったんですね」って涙のシーンで、執拗に力任せに子供の手を引いていた嘘のお母さんの気分というか、何と言うかぁ、よくわからんわぁ。でも、オモロかった人間交差点だった。

サイレンっす 2005/7/6
 昨夜の雨は居心地の良い涼しさがあった。
  昨日一日、僕の声はどういう訳か押し沈んで人と普通に話していても内緒話をするように囁く事しか出来なかった。
「……、……。」
帰ってきて夕食を済ますと、僕は片付けられたキッチンの木机の上に頬擦りをして、取り留めのない事を取り留めもなく考えていた。
「……、……。」
クリーム色のペンキにつや消しの仕上げ剤を塗った自作の机。木目をさすると夢は広がった。
「……、……。」
なんて甘い、そして取り留めのない想像だった。
「……、……。」
手が止まる。
「……、……。」
頬擦りも止まる。
「……、……。」
眼を閉じる。
「……、……。」
マシュマロを頬張りながら眠ってしまう事だけが唯一実現可能な夢か。
「……、……。」
机から頭を起こした。
「……、……。」
子供の頃から変わってないのは、こうして素っ頓狂で手前勝手な夢を見ては喜んでいる癖だ。この癖が僕にエネルギーをあたえ無防備に信じて唄ってきたし。でも、こんな癖が僕をいつも、どこか人の理解し難い背景を作って奇妙に見せてきた事でもある。
「……、……。」
僕は深い紺色のグラスを棚から下ろし、氷を三つ
「カランカラン」
と入れた。
「……、……。」
ちっとも意識なく、ちっとも欲求もなく、僕はその氷の上から焼酎を注いでいた。
「チッ、チチッ」
氷がきしんだ。
「……、……。」
水道水で焼酎を割ると、僕の喉はゴロゴロとグラスに入った液体を流し込んだ。
「……、……。」
「ウッウン、エヘン、エヘン」
「……、……。」
矢張りまだ喉は調子を戻していない。きっと僕が何か重大な想いを誰かに聞かれてはいけないと、身体が声を仕舞い込んでいるのかもしれない。
「……、……。」
グラスに浮かぶ氷を指でもてあそび、もてあそばれた氷は恥辱によりみるみる溶解していった。
「……、……。」
氷は角が取れ、丸く身を縮めている。そうして透明な身体を一層淡くして僕に見つからないようにしている。
「……、……。」
「……、……。」
僕は小さく今にも融け切ってしまいそうな氷の背中に焼酎を注いで、追い討ちをかけた。そして、まだ何も知らない無垢な新しい氷を冷凍庫から取り出し、その霜で白く覆われた身体をグラスの中で透明にした。
「……、……。」
この夜は一向に酔えない、シラフとされる思考の方が遥かに酔狂な妄想を作り出しているからだ。全く酔う気がしない。
「……、……。」
僕はグラスを机に置き去りにして玄関を出た。外は丁度パラパラ雨の降り出すところだった。
  僕は傘を持たなかったがしっかりとした足取りで歩き出した。
「……、……。」
雨は電信柱三本目で強くなった。ゴミ捨て場に積まれたゴミ袋がカサカサ雨に濡れていた。そこには名札の付いた体操着が入っていた。
「……、……。」
僕は足を速めた。それは雨が強くなったからでも、少し酔ったからでもなかった。
「……、……。」
「……、……。」
「……、……。」
「……、……。」
「……、……。」
僕は雨音の割には、さほど濡れる事なく河に着いた。そして河沿いの木の下は全く雨が届いていなかった。でもその傍らには、誰もいない閉ざしたグランドが真っ暗に濡れている。水量が増した河の音は雨音を無口にさせた。
「……、……。」
「……、……。」
「……、……。」
「……、……。」
川沿いを歩き過ぎると、そこはドシャ降りだった。僕は雨にもてあそばされて縮こまり、溶解していった。濡れて融けていく。僕は行きよりもゆっくり歩んで部屋に帰った。
  そして、キッチンに戻ってくると机の上に深い紺色のグラスは置かれたままだ。でも氷は完全に溶けていた、が、なくなってはいない。
「……、……。」
僕は残った液体をゴロゴロ胃の淵まで流し込んだ。

時計達 2005/6/22
 よく降る一日となりました。昨日の蒸し暑さから一転して蒸し涼しい空気が過ごし易くもあるような気がします。しかし、傘を差して歩くと否が応でも視界が狭くなり、曇りを一層脳天に集約してしまうようなもので、濡れ鼠の方が返って幸福に見える事もあります。心穏やかに、どんな水溜りにも気色を変えないよう、穏やかに穏やかに歩きます。
  一昨日のLIVEに足を運んで下さった方、僕の唄を楽しんで頂いた方、有難うございました。僕自身も吉川みきさんと三ヶ月ぶりに一緒にステージに立たせて頂いて至極楽しい時間でした。普段一人でできない事が二人でできる、音の隙間、重なりで唄が肉厚になる。またみきさんというエネルギーとこの効果を体感できるのは音楽をやっていて何よりの感謝を実感します。くどくどした事は話したくなくなったくらい充実した夜になりました。有難うございました。

  さて、そんなLIVEの日の昼、家を出掛ける前、まだ心と荷物の準備をしている時に起こった不思議を報告します。
  石橋を叩いたら砕けて渡れなかった程に慎重を期す性格の僕は一人出陣の儀式をします、

「指差しか〜くに〜んっ!」
「ギター!」
「ヨ〜シ」
「エフェクターボード!」
「ヨ〜シ」
「靴下〜!」
「クロ〜」
「佐野っ!」
「シロ〜」
「枕っ!」
「ピロ〜」
「の上にある時計!」
時69分!…にっ!…じぃ?」
  これは僕のデジタル電波時計が指し示した時間です。この時計は目覚ましにも使っていて、昨年のツアー中も連れて行って毎朝起こしてもらっていた時計なんです。
  だいたい我が宅にある時計達は、時計という名には似つかわしくないほど気紛れな奴等が多いんです。まずキッチンの時計、こいつは深夜僕が眠るのを見計らって居眠りをする不届き者で、何度時間を直しても朝には3、4時間遅れています。ちなみに僕が見ている前で止まった事は一度もありません。電池切れかなぁと思い何度か新しいものに替えたんですが矢張り同じように遅れます。
  そして、風呂の時計。これはセッカチな性分で、何を焦ってるのか知らないですが一日に1分ずつ早くなっていくんです。気付かず何日かほっとくと20分くらい進んでいる事があって、出掛ける前に風呂に入って「あっ」と驚かされる事があります。
  これらは針が時間を指すアナログ時計ですから、まぁ「さもありなん、さもありなん。長く使って親しみのある奴等だし仕方ない」と思っていました。だから何より正確さを追求された電波時計を一台我が宅に必要だと買ったのです。ご存知の通り電波時計は流れてくる電波を受け取って云十年に一秒程しか狂わないっていう電磁波社会の申し子のような時計で、確かに我が宅で一番正確で時間にうるさい存在でした。
  がっ、しかし『2時69分』だって。「なるほど2時69分…って馬鹿っ!」一人乗り突っ込みも虚しいほどに眼を疑いました。まず“分”を指すところに“6”って数字を表示できる事に驚きました。だって絶対に使わない場所だもん。それでも液晶板がちょっとバグッてしまったのかと思って出掛ける準備を続けていました。するとその後その時計は『2時73分』と順調に記録を伸ばし続け、結局僕は『2時85分』に家を出ました。一体、持ち主が持ち主だけに時計がこうも野放図に育つのか、遺憾に思いました、とさっ。

どれがいいですか? 2005/6/18
 昨夜、僕は猛烈にアイスクリームを食べたくなって近くのコンビニへ出掛けた。冷た過ぎるほどのアイスクリームを存分に僕の口の中で融かしてみたかった。それは僕にアイスクリームを融かせるだけの情熱と余力が残っているのか試したくなる季節のせいだ。そして僕はごく当たり前に自動ドアーを開ける。
「いらっしゃいませ、こんばんは!」
ごく当たり前に店員に迎え入れられ、僕はごく当たり前に無言で行き過ぎる。そして店員はそれを気に留める様子さえない。僕はアイスクリームの売り場の前でしなやかに悩む。

『ガリガリ君ヨーグルト味…』心が揺れる。

  未だかつてガリガリ君を食べて、その棒に『当たり』の文字を見た事がない。生来、ギャンブルには向いてない人間だという事を訓戒として生きてきたが、一本のおまけにこの日ばかりは実に口惜しい。今日こそ当ててみようかと誘惑が踊り出す。しかしその隣には、

『…!!苺と豆乳のソフトクリーム!』このようなものはついぞ見た事もない。

  僕は自身を保守的な人間と痛感するのはこういう時だ。悩んでいる時に新しいものを手に取って見てみるだけの事がついつい希薄になる。そんな想いがあるから余計に興味をそそられ、僕はそのアイスクリームを手に取って見た。このような心の左様は最近些細な事柄によく反映されている気がする。新しい入り口は、今更という道理には変え難いものがある。
  ただ、一つ問題なのはガリガリ君はよく食べるアイスクリームだが、ヨーグルト味というのは初めてお目に掛かるものだという事だった。二つの新しい入り口がよく冷えて僕を誘っている。僕はなおもアイスクリーム売り場の前でしなやかに悩んでいた。すると、

すると背後で高く丸い、いかにも活き活きとした女性の声が聞こえた。
「すいません、あのねぇ、インスタントラーメンはどれが美味しいのか教えて頂ける?」
その御陽気で麗しい質問はコンビニ中の人間の耳を釘付けにした事は間違いない。見るとパジャマ姿にコートを軽く羽織って出掛けて来た初老の女性が店員に対峙している。店員もその直向きさにすこし喉を詰まらせた様子だった。
  僕は自分のアイスクリーム問題よりも遥かに難解なオバサンの質問に自分ならどう答えるべきか、これに専念せざるを得なかった。オバサンに満足のいく答えを出そうと思ったら、そもそもオバサンは何故パジャマで、しかもこの夜遅くに、そしてインスタントラーメンを買わなければならないのか考えなくてはいけない。それに、このオバサンのインスタントラーメン履歴を考慮に入れると、その答えは那由他、不可思議、無量大数の憶測が成り立ってしまう。
  僕がガリガリ君ヨーグルト味を見ながらもその思念に暮れていると、二十台半ばの青年店員は存外軽快にレジボックスを飛び出し、オバサンと共にインスタントラーメン売り場の前に立ち、明瞭にオバサンの悩みを解決し始めた。
「一般的にはこの辺りのものが好まれるものだと思います。ですが、高級志向ですとこちらの260円くらいからのものがいいかとは思いますが」
  僕には得心のいく答えで感心した。このよく見るが決まりきった会話しかしない青年にこんな魅力が隠されていたのか。ごく当たり前に「いらっしゃいませ、こんばんは」そして無言の僕、「有難うございました、またお越しくださいませ」「どうも」の行き交いが、なんと尊い縁であったかと改めて思った。オバサンは暫らく色んな質問をこのインスタントラーメンに長けた青年店員に聞いていたが、ある程度の判断材料が出尽くすと、
「有難う、でも今日はやめとくわ」と出て行った。

  まったく、天使のイタズラのような時間であった。ごく当たり前に慣れた場所に起きた不可解な出来事は、結局何も買わず一種の爽快さだけを残して霧雨に帰っていった。
  僕はというと、またアイスクリーム問題に立ち返り、悩んだ挙句に両方を手にして青年店員の前に持っていき会計を済ませた。ごく当たり前にお金を渡し、袋に詰められたガリガリ君ヨーグルト味と苺と豆乳のソフトクリームを受け取り、「有難うございました、またお越しくださいませ」と言われ「どうも」と返した。

  僕も新しいものへの入り口を諸手に抱え夜霧にまぎれ帰った。新しいものへの旅は果てし無く続く。

追伸:
ガリガリ君は結局今回も当たらず、記録は更新中である。

スジャータ 2005/5/26
 えぇ、今日は写真を載せます。こないだもLIVEでお花を頂いて、あいつ元気にしてるかなぁって気に掛けられてるだろうと思いまして。我が家でこんな感じに花開いていますという報告を兼ねて。 これは假屋崎省吾の言う“投げ入れ”という活け方だそうです、はい。しかし“投げ入れ”ってそのままだな。手前はO-crestの時にもらわれて来た花だから切花にしては随分元気がいい連中だ。奥は芍薬(しゃくやく)、もらわれてきたその夜に花が開いたな、こいつらも元気が良い。この肉厚な花は和風、中華、ベル薔薇、あらゆるシーンに色をそえれる花だね。しかし、芍薬なんて漢字は生まれてこの方、ついぞお目に掛からなかった漢字だな。日本語ってだからやり甲斐があって楽しい。

  今日もふっと漢字に就いて考えた。何気なくみんな苗字をそのまま呼び合ったりしているんだけど、苗字を持つ事を許されたご先祖さん達にはきっと誇り高き家名だった事だろうと思うんだよね。僕の“山口さん”はどうにも山育ちらしい名前でご先祖さんはあまり考えなかったのかなぁって思ったりするんだけど、例えば“乾(イヌイ)さん”なんてどうして乾なんだろう??って思うよね。ある朝、外に出てみたらやけにいい天気で「うはぁ、今日は洗濯物がよく乾くなぁ」って伸びてたらこの名前を思い付いたとか、これは僕の勝手な想像。でも、調べてみると“戌”と“亥”の方角、(ネーウシトラウータツミー)のあの戌亥(イヌイー)の方向で西北を意味するんだって、なるほどねぇ、感心。
  「これはこれは御手洗さん」“御手洗”っていうのも調べてみると、神社のお参りする手前の柄杓で手を洗うところの事を言うみたいで、つくづく神聖な名前だなぁって思うよね。で、この漢字は“ミタラシ”とも読む訳で、っていう事はあの“ミタラシダンゴ”は“御手洗団子”って事なのかなぁ?するってぇと遥々参拝に訪れた人達の為に参道で売っていたお団子って事なのかなぁ???想像は膨らむばかりだ。

  突然だけど、“ダイゴミ”って漢字で書ける?
  大ゴミじゃぁないよ。

はいブー、時間切れぇ。

醍醐味

ですね。意外に書けない漢字シリーズにランクイーン!!
  “醍醐さん”って苗字もあるのさ。後醍醐天皇とかの“ダイゴ”。モンキーマジックではないよ。
  じゃぁ、更に質問で醍醐味ってどんな味でしょう?新作アイス“ダイゴアジ”登場って広告を見たらみんなはどんな味を想像する?

  醍醐って、牛や羊のミルクからできた濃いクリームなんだよ。だから、醍醐味ってとっても甘〜い味なんだねぇ。「ここが、この映画の醍醐味だよ」なぁんて恋人に言われたら、「まぁ、ここが甘〜いとこなのね」って、いい雰囲気ィィ。でももし、ホラー映画だったら複雑ゥゥ。
  かすぃ、醍醐味って辞書によると『誰にでも理解でき、他の何物にも変える事ができない深い奥行きを持った、この世で最高の、仏の教え』と金田一さん達は書いてます。さぁさぁ、ブッタの教えかぁ。
  と言われてみれば、ブッタが菩提樹の下で絶食の中から悟りを開いて、ガリガリのヨボヨボでお腹を空かして歩いてたら、スジャータという女性がミルクのお粥をブッタに食べさせた訳ですよ。悟りを開いて初めての食事、初めての人との触れ合いですな。『誰にでも理解でき、他の何物にも変える事ができない深い奥行きを持った、この世で最高の、仏の教え』ってその時の味じゃなかったのかな、醍醐味ってそんな味かもなぁ、なんてこれは不確かな僕の想像ですよ、詳しい事はお坊さんに聞いて下さい。でも、
  でも、僕はそう信じたいなぁ。


大阪に行ってきました。 2005/5/20
 さて、結構大阪の人の人情に忙しい二日間でした。それだけに幸せな時間でもありました。大阪に直接関係のある事ではないんだけど発見がありました。大阪に着いて直ぐに“大王製紙・エリエール”と光る看板を見つけて、「おやっ?」っと思い出してみると、銀座辺りで“王子製紙”という看板を見ていた事を思い出しました。王子製紙とはてっきり東京の王子という街の名前の事だと思っていたのですが、これはきっとそれだけじゃない。大王と王子、あのティッシュにはもっとマハラジャな理由が隠されているんじゃないかという疑念にときめきました。

  LIVEで一緒になったシガキ君と打ち上げの時に話していたら、また大阪に直接関係のある事ではないんだけど発見がありました。シガキ君の生まれの熊本の話をしていた時、“肥後もっこす”の話題が出たのさ。お恥ずかしい話、僕は“肥後もっこす”とは阿蘇山の噴火口からズドーン!って出てくる地底怪人の事だと思っていて、シガキ君に「そうだよねぇ?」と同意を求めたら「違います」と言われた。「肥後もっこすが怪人だったら、僕も怪人って事になってしまいます」とシガキ君は言いました。なるほど、“肥後もっこす”とは熊本に住む肝っ玉のデカイいい男の事かぁと分かった。高知で言えば“イッゴッソウ(異骨相?)”、鹿児島で言えば“薩摩隼人”、カリフォルニアで言えば“シュワルツネッガー”といったところだろう。僕は岐阜県出身であいにくそれに見合う方言がないので“美濃もっこす”になるかなぁと思います。

  さて、話は大阪道中車内なんだけど、あれだけ持っていったマンゴーグミもユーカリキャンディーも太一君には「グミが嫌い」という理由で試食もなく拒絶されてしまい、僕は一人でモグモグやる事にしました。何とも勿体ない話しです。

  帰りの高速道路、休憩は由比というサービスエリアに止まりました。眼前に広がる太平洋、そして向かって右側に悠然と肢体をくつろがせた富士山が現れていました。僕はサービスエリアの屋上に設けられた展望台でその景色を一杯に吸い込んでいました。天気は良くないのに富士山が見れるなぁなんて考えて。すると駐車場で男の人が富士山を一生懸命デジカメに撮ろうとしていました。こんなに露わな富士山を見れるのはそうそうない事だろうから気持ちは分かるんだけど「デジカメに撮ると結構小っちゃくなっちゃうんだよ」って教えて上げたかったな、まぁ余計なお世話だけど。あの人、今頃誰かに見せて自慢してるかな「富士山がすっげぇ綺麗に見れたんだぜぇ」って言いながら。まぁ僕もここに慕夜いている事も同じかぁ、実物よりか随分小さい表現で伝えてるもんなぁ。あの日、あそこで見た人だけの富士山でしかないなぁ。

  なぁんて、久々の大阪でした。

移動 2005/5/17
 今朝はいい天気で始まってます。もうそろそろ大阪へ向かいます。今回は車移動なのでマンゴーグミとユーカリキャンディーを沢山持ちました。ユーカリキャンディーは喉にいいとの噂です。傍ら日記を書く太一君と一緒に行くのでお裾分けしようと思います。そうやって機嫌を取っておかないと何を書かれるかわかりませんので。(しかし、のど飴が必要なほどのマシンガントークがあるでしょうか…)僕は昨日、太一君にジャンケンをして楽しみながら大阪に行こうと提案したのですが、無下に断られました。ツアーで回っている時は、歌しりとりをしていたのですが、あれは僕の方が完全に弱いのでストレスが溜まるからやめとこう。
  今日、今のところ東京は18℃だそうで、大阪は25℃もあるそうです。この寒暖差に対応する着替えを持っていくのはとても難しい。例えるならば、蟻の巣に石膏を流し込んで蟻達の生活を型に取るくらいの難しさです。久々の東海道、一度はバイクで走った事もあります。由比辺りで見れる海が大好きだい。


ガタガタ、ガッタンゴットン、ペチャンコ 2005/5/17
 ここんところはあいにくの天気が続く。曇り空にバイクのエンジンを響かせ走り出すと、思ったよりも寒くて、日本の春をあなどってはいかんなと思う。目白通りは日常通りで行きつ止まりつの混み具合。ヘルメットの中ではどれだけ騒ごうともバイクの音に掻き消されてしまう。いっそ普段は口にしないような粗野な言葉をそこいらの車に浴びせてみようかと思うのだが、残念ながら周りには優良ドライバーばかりで僕は矢っ張り沈黙したまま走っている。明治通りに入る。この道で一度、警察に捕まって減点された事がある。早稲田通りを越すと、いつから続いているのか知れない道路工事に道はガタガタになっている。ガッタンゴットン、バイクが振動する度に古いエンジンが不整脈を打つ。僕も随分運転に慣れてきたものだ、バイクの免許を取ってこの夏でやっと一年を迎える。
  運転適正検査、ってのにはいつも不愉快な想いをさせられた。自動四輪車の免許を取る時の適性検査もそうだったが、『情緒不安定』『自己中心的』『注意力欠如』『動作が鈍い』ありとあらゆる不適合で僕に『運転はよっぽど気分の良い日、余暇で乗る程度にしましょう』と謳っていた。しかしどうだ、僕はありとあらゆる不適正要素が混ざり合ってちょうど中域にあり極端な優良ドライバーになって今公道を滑走している。
  信号で止まると、中央分離帯と車道の繋ぎ目に汚れた革靴が一足落ちていた。黒い革靴は何度か車輪に踏まれているらしい、ペチャンコになっている。一足だけ。高速道路とかでもよく見掛ける風景だが、いつも僕は不思議に思う。この靴の主人は片方の靴を落として、一体気にならなかったのだろうか。ハンカチや手袋とは違う、歩いている時に靴が片方脱げたらどんな頑強な足の裏を持つ人でも一歩目で気付くだろう。だから、きっとこの靴の主人は気付いていても、尚更片方だけの靴を誇りに履いたまま歩き続けたのだと思う。それは車道の真ん中に。
  この靴の主人の気持ちは如何なものだったろう。
「雑多な街、これだけ人が歩いてその万分の一も知る人がない。これだけ人が歩いていて、言葉の通じる人がいて、心を通じ合わせる人はごく僅か。無明の交差点に流されているような人生、この人ゴミに流されていれば、あっと言う間に渡り切ってしまうだろう。そう、人生は流されていれば、きっと自然に終える。あの電信柱にとまったカラスは自分が真っ黒な身体をしている事には恐らく気付かずに、何処かの野辺に朽ちる事だろう。しかし、私は私の身体が黒なのか赤なのか自覚したい。何かを得て、何かを為し得て、名を百代に残すとも、人はこの交差点にあって、皆平等に一瞬の無名に過ぎない。再びとない私という時間に、光を射すのは矢張り私でしかない。この陽炎のような生き物一匹、私一匹、地球に一つ思い出を刻めるとしたら。それは私にしか解らないものとして。生き物の端くれとして、無名の私が私を自覚した証となるものを、地球の歴史に忍び込ませれる事はないだろうか」
そこで彼は足元の光に気付く。履き古した靴は、彼の足から喜怒哀楽や本音の圧力を受け、そしてありとあらゆる地面を蹴って来た。これほど直に彼自身を映しているものはない。そして、彼は人ゴミに押されながらそっと片方の靴をそこに置いて行った。
  取り留めのない想像があった。本当にどうでもいい想像。
  ただ、本音を打ち明けるというのは、結構自分に対しても怠っているものなんだと気が付いた。言ってみれば僕は僕自身を無視して、「まあまあ」と誤魔化していたりする。僕は僕ともう少し正直に付き合ってみたいと思った。人はなるべく笑って過ごさなくてはいけない。人はなるべく人と伝え合っていかなくてはならない。そして本気がなくてはならない。ああしてペチャンコに踏み潰された靴にも色んな所を歩いた自負がある筈だ。
  僕はヘルメットの中でやっと奇声を上げ、何かを捕まえるかのように風を切り裂いた。

大変、お待たせしております。 2005/5/16
今夜には慕夜こうとしています。
今日、一生懸命唄おうと思います。ヨロシクね。

追憶と未来へ 2005/4/16
『まず頂いた質問について』

  以前、トップページの慕夜記のNEWSコーナーに載せた“山プチ易学研究所”について「山口さんは占いに興味をお持ちなのですか?」との質問を頂きました。お答えしますと、僕は当たるも八卦、当たらぬも八卦という思想の元、気分次第で占いは100%当たり、また100%外れるものだと信じています。「今日の僕はきっと運がいいぞ」と信じれば、何があっても「あぁ、僕は今日、なんてついているんだ」と感謝できると信じています。とは言え、僕も不安、心配、恐れ、悩みに気分を左右される事が多い季節、箸が転がっても恥らう年頃でもありますので、シドロモドロン先生というガード下の易者の所に相談に行きます。この易者はこの人自体、自分の行く末が見えず不安、心配、恐れ、悩みのかたまりになっているような易者なので、僕の事を占ってくれと言っても「それがぁ、俺の眼は俺の事で目一杯になっていて、お前みたいな若輩の事まで見てやる暇がない」と言われます。そして最終的には必ず僕がシドロモドロン大先生の人生を励ます事で終わります。しかし、世に花咲かせている過度に華美な占い師なんかよりシドロモドロン先生の方がよっぽど人間臭くて、存在だけで生きる事を励ましてくれます。
  つまり“山プチ易学研究所”とはそういったシドロモドロン大先生の「人生は行き当たりバッタリ」占いに基づき作成されたものであります。当たる当たらないはあなたの信じ方に大きく依るものです。あしからず。

話は本題へ、久々の慕夜記。


『中国追憶』

  僕が北京に留学した当初、大学内には沢山の屋台が点在していて昼時になると餃子や包子や刀削麺の美味しそうな匂いが湯気と共に学内に漂っていた。天気のいい日、午前の授業を終えた僕は朝から食べようと決めていた包子を買いに屋台へ向かう。雨が一ヶ月近く降っていない快晴のもと、陽に焦げたほどの肌に白髪を結わえたお婆ちゃんが、ドラム缶の上で今日も包子、餃子を焼いている。コンクリートの空き地に掘っ立てた二つ三つのテーブルに常連客の男達が牛肉麺をすすっている。僕は育ち盛り、太り盛りの男の子らしく包子を四つ、餃子を十個をまだ拙い中国語で注文する。お婆ちゃんの声は皺枯れていて小さいが、顔はクチャクチャに笑顔になる。隣の鍋では兄ちゃんが小麦粉のかたまりを包丁で削り落とし刀削麺を作っていて、僕がその妙技に見惚れているうちに餃子も包子も焼き、蒸し上がる。それをお婆ちゃんは薄いビニール袋に詰めてくれる、しかも必ず一個か二個おまけしてくれる。拙い中国語では遠慮の仕方が分からない。「いやいや」なんて慌てていると、お婆ちゃんはそんな僕を制して、片目をつむって口の前で右手を振り「いいよいいよ」って仕草をする。僕がまだ中国語が堪能でない事、食べ盛りな学生である事をお婆ちゃんはいつもこの仕草で包んでくれた。一年半くらいでその屋台はなくなってしまったが、僕の好きなお婆ちゃんだった。
  僕が留学して二年目になるとギターばっかり弾いて、授業に出なくなった上に成績もガタ落ちに落ちて退学スレスレを水面飛行をし出した。そんな時に呉老師が「シャンコウ(山口)はやれば出来る子」と励ましてくれた。とてもおっとりした先生だった。とても優しい先生だった。みんなのお母さんって雰囲気がとてもあった。僕の好きな先生だった。
  僕は授業が終わった教室でよくギター片手に唄っていた。その同じフロアの個室に、黒ぶち眼鏡のお爺さんが宿直して管理していた。僕が毎晩のように大音量で唄っていると、そのお爺さんが部屋に入ってくる。「時間ですよ」と言われる。夜11時で門を閉めなくちゃいけないのだ。僕がギターを片付けているとお爺さんは僕のハーモニカやピックを手にとってニコニコしていた。今から思うと、よくあんなうるさい唄を毎晩のようにニコニコ許していてくれたなぁと思う。若気の至りとは言え、申し訳ない。僕の好きなお爺さんだった。
  天安門広場まで自転車で行った。道は綿が飛んで雪のような北京情緒だった。
  部屋の床は石だった。さすがに靴を脱ぎたいと思い、絨毯を買いに行った。絨毯屋で絨毯を買って表の通りに出れば、客を張っている運び屋さん達がいる。僕は値段交渉をして荷台付きの自転車に絨毯を乗せ、ついでに僕もその丸めた絨毯の上にまたがり学校まで運んでもらう。たくさんの自転車に囲まれて荷台からの景色は気分は最高だ。赤く焼けた運転手のおじさんの汗はすごいアルコール分が強かった。
  大学院に通いながら僕等の先生をやっている青年がいた。彼は学校に貼った僕等のギター部ライブのチラシを見て、ライヴを見に来てくれた。次の日、授業が終わると、僕は彼の大学院の寮に案内された。二段ベットが二つと机が二つの狭い部屋に四人暮らしだった。それぞれのベットの枕元には太い参考書が並べてあった。僕は彼に林檎をご馳走になり、僕は彼と彼の同部屋の院生の為に一曲唄った。下手っぴぃな唄をみんな優しく聴いてくれた。ちょっぴり恥ずかしかったが、とてもいい放課後だった。
  僕が授業の終わった教室でギター片手に唄っていると、同じ大学の日本語科で勉強をしている中国の女の子が遊びに来た。彼女は僕の唄を暫らく聴いて、僕も暫らく唄うと彼女と雑談した。彼女は僕より日本の流行り唄に詳しかった。そして僕にそれを唄って聴かせてくれた。僕はその唄にギターで伴奏したが、やがて彼女の唄は想いが詰まって僕の伴奏を置いていった。彼女はかすれた小さな歌声だったが、でもその気持ちのこもり方はとても深かった。彼女と会うのはそんな教室だけだった。彼女に沢山の中国の唄を唄ってもらったし、僕も沢山の唄を彼女に聴かせた。彼女は四川省の生まれで、夏休み実家に帰るとお土産に自家製の腸詰を持って来てくれた。僕は辛いのが苦手だが、さすが四川省、とても辛い腸詰だった。でも、ほっペが落ちるほどの美味しさだった。今でもどこかの料理屋さんで腸詰というメニューを見ると無性にあの漢方くさい腸詰を食べたくなる。中国留学もやがて年月が経って、僕の帰国の日が決まった。お互い何となく意識はしていた限りある時間が終わりを告げようとしていた。いつもの教室で僕と彼女は最後の話をした。彼女は僕に写真立てをくれた。僕はいつもの通り笑っていたが、彼女は少しシンミリしていたように思えた。僕等はいつもの教室から出た。僕は彼女と別れ、部屋に戻ってからその写真立てに入っていた写真の裏を見た。手紙が書いてあった。『またいつか会える日を楽しみにしています』と日本語で書かれていた。その文面の“いつか”の所が修正液で書き直してある事に気付いた。僕は何気なく陽にかざして元の字を透かして見た。すると元には“来世で”だった。僕はグッと胸が詰まった。彼女の時間の感覚は僕のとは違った。きっと彼女は僕の何となくな時間も見越していたのだろう。その通りで、僕等は連絡先も交換しずに別れた。今から思うと何故そんな事にも気付かず帰って来てしまったのだろうっていうほどの事だが、その当時は目一杯でお互いがそこまでの時間を意識していたのかもしれないと思う。彼女のメッセージは『また来世で会える日を楽しみにしています』だった。心のすれた現代日本人の中では「何それ、ちょっとこわーい」なんて言う奴もいるかもしれないが、それは間違いだ。あの広大な中国という国土、12億からいる人口ひしめき合う中で、自分の思い通りになる事は少ないと言っていい。その限られた選択肢の中、来世を選び、またいつかに修正して僕にくれた想いは一生忘れ得ない言葉になった。

日本人という事

  いつか雪解けて、交じり合う日が来るだろう。僕等は誰も殺し合ってはいない世代なのだから、いがみ合う理由は本来ないんだよ。でも、仕方ない時間が今起きているのかもしれない。今はどうにも仕方がない。きっと僕等には本当に来世くらいがやっと住みよい環境になっているかもしれない。つつき合って出てくるものは埃ばかりだよ。喧嘩は殴り合うところまでいっても、口喧嘩で終わってもスッキリしないものだと歴史で学んだね。僕等に課題が残されている、戦争の世代から負の遺産が負債になっている。今は静かに、今は静かに、お互いで慎み合う事かもしれない。

みきさん 2005/3/27
 今朝は五時半頃に眼を覚ました。何の目的意識もなく朝一でトイレに入り便座に腰掛け呆然としていた。ここ数日、謎の便秘に襲われている為、無意識にとった行動と思われる。呆然と半時あまりトイレで過ごしたが、謎の便秘は解消されないままトイレを出る事になった。出ないのに出る、つくづく人間とは矛盾を抱えた生き物だと痛感した。ベットに戻りテレビをつけもう一度眠りに戻ろうとしたが、適度に不快なニュースの為に眠りに戻る事も叶わなかった。今朝の春眠は暁を忘れている。
  気を取り直し、パソコンの電源を入れ、今日締め切りのキャシーズソングHPのキャシーズラウンジの原稿を仕上げた。それをメールで送信し終えると、一息入れる為キッチンに行き、その窓を全開にし煙草を一本平らげた。今日は天気が良い。とは言っても、僕のキッチンの窓から望める空は全部合わせて60cu程度の面積という狭い世間でしかない。僕なりにこの部屋に住み慣れた観測から、この60cuの空の青さ、雲の無さなら、街に出て広い世間を見てもきっと快晴に違いないと思われた。このキッチンの窓からはまた、30cu程度の面積で向かいの家の庭の桃の木が見れる。今は桃独特の肉厚な花を咲かせ枝を立てている。こんな狭い視界からも春は届いている。驚いたのは昨日、この桃を見た時、この桃にうぐいすが遊んでいた事だ。練馬と言えどもこの忙しい都会に、このような花鳥風月を望めるものかと感心していたのだった。

  29日のライヴはまさにこんな春の便りになるライヴになるといいなぁと思った。告知の通り、今回のライヴは吉川みきさんのピアノと一緒にやる。みきさんとは何度かお仕事をご一緒させて頂いた。レコーディングもそうだし、昨年のワンマンライヴで「私と云ふ幸せ」という曲を、最後にみきさんのピアノの伴奏だけで唄ったのは、ずっと宝物になっている。今朝キッチンから桃を見ていて、僕のみきさんの印象は桃だなぁと思った。何が?と具体的な類似点では話せない印象のお話。みきさんのコロコロと笑う少しはにかみがちな表情、そして肉厚な演奏。演奏は桜のようなは淡い色ではなく、ぐっと色を増した桃に似ているなぁと思う。
  もうみきさんとのリハーサルは終えているのだが、二人で演奏するというのはとても刺激的な事だ。いつもの弾き語りとは違うし、大人数とも違う。タコが八本の足で歩くのと、アウストラロピテクスが二足で歩くのとの違いがある。エネルギーのバランスが常に二分されて、平等に演奏しているという事なのだろう。二人で演奏するという事は、より露骨な音の絡み合いがあるというのが、演奏しているとピリピリ肌に刺激が来るのだ。力、唄に対するイメージが拮抗して重なり合っている感想を持った。僕の武骨な唄に対するエネルギーと、みきさんのみきさんらしい優しさと女性らしい厳しさのエネルギーが均衡して重なり合った時、このまま演奏を止めず、ずっと唄っていたくさせるような魔力を感じた。そして、それを今度の火曜は、えっと29日か、7th Floorでお見せできる訳です。是非そこを楽しんで欲しいなぁと思います。

  さて、もうそろそろいつも起きている朝に近付いている。今日は一段と春うららに暖かいらしい。ゆっくり長めの散歩でもして、原因不明の便秘は解消して春気分も充電し、火曜のライヴに備えたいと思う。
  桃が演奏するよ、うぐいすさん達、遊びにおいで。

押し掛け 2005/3/10
 今日は随分と天気が良い一日で、僕が乗っている老齢のバイクも順調にエンジンの音を上げた。今日こそは押し掛けをしなくても済んだ。押し掛けとは、言葉の通り、バイクをうんしょと押して走って、或る程度の速度になったところでエンジンを掛けるという技。つまり、僕の老齢のバイクは寒さに弱い。バッテリーが冷えて、スタートボタン一つではエンジンが掛からず、キュルキュルと金切り声を上げるだけだ。この為、寒い日が続いたこの冬は、僕がバイクに乗ろうとすると先ずこうして重たいバイクを必死に押してエンジンを掛けなくてはいけない、なかなか思い通りにエンジンが温まらず、バイクは冷えてるのに僕は汗だくになっている事もある。でも、今日は調子がいい、ちょいと恵比寿までドライヴだ。
  ガソリンが残り少なかったから、僕は早速ガソリンスタンドに入った。つい先日、僕のバイクのエンジンが掛からなくなった時、その押し掛けをして汗だくになっていた事があった。すると、ここのガソリンスタンドの青年が爽やかに近付いて来て「手伝いましょうか?」と言ってくれた。彼は僕のバイクのお尻を押して一緒に走ってくれた。幾度か押し掛け往復をして、彼は後ろから一生懸命に押してくれた。それなのに僕のバイクときたら失礼なもので、うんともすんとも掛からない。僕は彼に申し訳なくて「いやぁ、駄目ですね。諦めて電車にのります。お手数掛けました」ってお礼を言って、無礼なバイクを引き摺って帰ろうとしたのですが、彼は「最後にもう一回だけ挑戦させて下さい」と言ってくれたのだ。結局その最後の挑戦でも僕のバイクは動かなかったのだが、こんな都会の真ん中で、こんな優しさに触れるとは思いもよらず、幸せだった。そして今日また、その青年に会ってガソリンを入れてもらった。「先日はどうも」「動きましたか、良かったですね」なんて話しながらレギュラーガソリンを現金満タンにしてもらい、僕とバイクは有難うという感謝の意を込めてけたたましいエンジン音を上げて、彼のガソリンスタンドを後にした。
  その後、恵比寿に行き、用事を済ませ、またバイクにまたがって帰ろうと準備をしていた時の事。僕はバイクの座席に置いていたヘルメットをうっかり落としてしまった。ガンッ、と派手な音が静かな路地に響いた。僕は「あらっ」と団地妻のような声を出してヘルメットを拾った。すると、迎いから歩いて来た、下校中であろう小学2・3年生くらいの女の子が僕の姿を見ていて、
「平気ですか?」
と快活な声で僕に言葉を投げ掛けてくれた。僕は思わずつられて、小学生が先生に答えるように、
「平気です!」
って答えた。身体の2倍ほどのランドセルをおんぶしながら彼女は微笑んで、また自分の通学路をテクテク歩いて行った。その後姿の楽しげな事といったら、スキップのような歩き方だった。僕は嬉しかった。子供、小学生、親子、今多種多様に迷ってしまった最も基本である筈の人間関係。大人達が首を傾げ、あれやこれやと考えれば考えるほど子供達の犠牲は増えていく。そんな中で、彼女はとっても自然体に成長している子のように見えた。
  今日という、とても暖かい一日に、僕は暖かい想いを見ず知らずの人から貰った。存外世間とは冷たくも寒くもないのかもしれない。僕も暖かく接していけるかどうかなんだろうと実感した。

インド旅行記・聖なる水 2005/3/3
『河』

  そこから僕は気を失ったように歩いていた。炎に包まれたあの二つの足の裏が目蓋に焼きつき、そればかりを見て歩いていたように思う。ミントゥとも会話をした記憶がない、今から思うとあの帰り道で、あの華奢なヒンズー教徒ともう少し話をしたかった、彼の事を聞き、自分の事も打ち明けてみたかった。ここに住む者と、ここに迷い込んだ日本人として。しかし、静寂な時間は足音と共に過ぎていき、気が付くと、もうそこは元いたガートの水飲み場で、ラージャはそこに相変わらずの調子で、子供とじゃれ合いながら待っていた。そんな小男のはしゃぎっぷりは、邪気のない子供のようにも見える。僕の眼はフィルムの入っていないカメラのようで、その景色を素通りさせる事しか出来ない。笑ってラージャの問い掛けを理解しているようでも、どこか気が抜けていた。そんな僕をラージャはいぶかしげに見ていた。そして僕等がガートの階段を下り始めると、小雨が背中に追い着いてきた。でも、蒸し風呂のように熱く湿気の多いこの街にいると、小雨は汗と同じ感覚になり拭いたければ拭う程度に、傘をさすまでの気はまわらなかった。
  ガートでミントゥのお兄さんという人が新たに現れた。彼は船を持っているので、マニカルニカーガートの方へ船を出してくれると言うのだ。でも、もう既に僕は大切なものを目撃した後だ。僕は別に火葬場という景色をコレクションしに来たジャーナリストではない。一つでいい、一つを大切に考える事しか出来ない。だから、断った。ラージャもミントゥもミントゥのお兄さんも、僕がマニカルニカーガートに執着しているものだと思っているようで、気を遣って値段が安くなる事を説明してくれた。確かに僕はあの名も知らぬ火葬場に行く前まではマニカルニカーガートへ連れて行けと執拗に迫っていたから、誤解をされるのは仕方がない。でも、もう僕にはマニカルニカーガートという目的は足の裏二つで消し飛んでいたのだ。僕の眼はガンガーを見詰めたまま、呆然と何度も断った。この時僕は、暫らく言葉を閉じたい、そう願っていた。
  しかし彼等は僕がお兄さんを信用していないのかと危惧しているらしい、僕を取り囲んであれやこれやと船の説明を繰り広げてくれる。ミントゥも日本語で今後の予定の手助けをすると言ってくれた。でも、僕の意思はそうじゃない。僕はラージャにミントゥのお兄さんを信用していなのではなく、ただ単に船には乗る気がない事を伝えた。ラージャはそれをヒンズー語でお兄さんに伝えてくれて、やっと場が落ち着き、少し和みを取り戻した。
「じゃぁ、次はどこに行くんだ?」
ラージャは活発だ。また、あちらこちらに友達や師匠が多いらしい。ミントゥを僕に紹介したようにまた誰かを紹介したいようだ。
「…うん」
「飯は喰うのか?」
「あぁ」
「どうする?」
「…このガートに座っていようかな」
「座る?」
「座って考えてみる」
「何を?」
「何を食べるか」
「何を食べる?」
「ここで暫らくガンガーを見る」
「それで?」
「考えてみる」
「……考える」
  ラージャは何となく僕に暫らく動く気がない事を察したようだった。ミントゥとミントゥのお兄さんはまだ僕のこの後の予定が気になるようで、どうするのか尋ねていた。そこへラージャが「彼は暫らく一人で考え事をしたいらしい」との旨をヒンズー語で伝えてくれた。それを聞いた途端、みんなが「オゥ」と言って蜘蛛の子を散らすように、気を遣って僕から一目散に離れた。これには驚いた。あれほどしつこく話し掛けていた大の大人が「考え事がしたい」という言ってみれば僕の一方的な要望を、いとも容易く尊重してしまったのだ。拍子抜けするような人情に僕は申し訳ない気さえした。ミントゥはこれから駅に着く日本人女性の旅行客を迎えに行くと言うので、握手をして別れた。そしてミントゥとは、その後に会う事はなかった。旅というのは短期間に濃縮した縁を教えてくれる。僕の感謝を華奢な背中に受けて、ミントゥは出掛けて行った。

そして、僕はガートの階段に座り、一人になった。

濡れたガートの階段に座ってしまうと、階段の少し冷えた石に深く腰が落ちていくような感触があった。ガンガーのふくよかな水面は音も立てず雨を吸収している。

  雨の中、僕はあの火葬場にいた座る人々と同様に、意識も感情も配慮もなくただ呆然とガンガーを見詰めるだけの動物になっていた。あの二つの足の裏が、僕が閉ざしてきた傷に沁みてヒリヒリする。それは眉間の辺り、奥深くに巣喰う弱みだった。僕はここでやっと日本の事を思い浮かべる事が出来た。一体僕の身の回りはどうなっているのか。頑なに思い込んで歩いてきた道程で大切な誰かを失った時、その喪失感や感傷にどうやって折り合いをつけたらいいのか考えていた。火葬場に呆然と座っていた人々は死んでいった身内に何を思っていたのだろう。僕には取り返しのつかなくなったものばかりが眼に浮かび、それを火葬する事はできなかった。僕がインド、そして遥々ガンガーまで足を運んできたのは、身を軽くしたかったからだ。がしかし、僕は今、取り返しのつかなくなったものを大きな石にくくり付けて、河底に沈めているような息苦しさだけが残っている。雨はジリジリとTシャツに臭いを染み付けている。これはさっき嗅いだ、あの二つの足から焼かれて出ていた臭いだとも思うし、また僕のよく知っている人の臭いにも感じる。


  こんな想いを、この淀んだ黄金色の河に沈めて成仏するものか。僕は大きな石にくくり付けられて、黄金色の視界の中で身動きもとれずもがいて沈んでいる。口からは肺に残った最後の気泡が現世に帰っていく。僕はそれを見詰めながら死河の淵へ沈んで、苦しい表情をしたまま何ヶ月も身体が完全に腐食するのを待つ。やがて時が経ち、乾季を迎えたガンガーに中州ができる。そこには血肉を海に返した僕の白骨がうち上がっていて、それを野良犬達がしゃぶって腹の足しにする。いかにも僕らしい想像をした。


  でも、ここでは日常にそんな事が行われているのだ。ここで起きている何でもない当たり前な死の旅路も、ヒンズー教徒と僕では天国と地獄の差が出来てしまう。僕のこんな悲惨なガンガーの淵のイメージを、あの座る人々に言えば僕をよほどの罪人と見るかもしれない。いかに僕が現世に捉われ、命にすがり、狭っ苦しい生き方をしているかが現れている。
  雨は静かにガンガーの川面を叩き、その穏やかな秒針は30分ほどで僕の背中を通り過ぎ、河を渡っていったのを僕ははっきり見ていた。静かで濃厚な時間が経ち、雨が去ると、また身体に纏わりつくような陽射しと暑さが帰ってきた。驚いたのは、濡れた僕の身体や階段の石がみるみる乾いていった事だ。30分かけて濡れたものが、15分ほどで乾いてしまった。

  一人の男が階段からヒョッコヒョッコと慎重に下りてきて、僕の目の前で着替え始めた。彼の足はびっこをひいている。ガンガーに向かって上手く腰巻を脱ぎ、タオルを股間に巻き終えると、彼は停泊している船に飛び移った。僕がじっくり観察している事など彼の気には全然触れていない様子だ。男は船のヘリに座って、細長い人差し指をガンガーの水に浸し、それを口に運んで歯磨きをし始めた。何度もガンガーの水に指を浸し、また口に運んで褐色の肌に映えた白い歯を丹念に磨いていた。彼の歯を白く保たせているのは、ガンガーに流された遺灰であり、沈められた死者の垢だ。僕はそれを見ていると、今僕がここで受けている或る種のショックなど肥え太った煩悩なんだと実感させられた。牛、犬、猿、人、生き物の境なく一体となってこの街の景色を作り、また生と死の境もなく、この人達は一体となって毎日生まれ変わっている。そして、常にそれを導いているのがガンガーであり、この聖なる水なのだ。彼は生き物のあらゆる苦楽で濁った聖なる水を口に運び、自分もまたその生物の一端に自然のまま存在している。僕は少し気が軽くなって、またガンガーの流れ来る上流を眺めた。すると、
「オエーッ」
僕の視界の外で先ほどの男がむせ始めた。「オエーッ」聖なる水は吐き出されている。「オエーッ」輪廻転生の原水は、今吐き出されている。彼は始終真剣な顔付きでブツブツ早口に独り言を言う。深まりかけた僕の感慨は意外に浅い部分に引き戻されてオチを迎えようとしていた。僕は複雑な気持ちで、確かめるようにもう一度、自分の近くの河面を眺めた。それでもガンガーは泰然と僕を真理に近付けようとしてくれている筈。すると、僕の見詰めていた河面にいきなり先ほどの男がザブゥッと顔を出した。彼はいつの間にか泳いでいたのだ。彼は沈んでは顔だけを出し、真顔で独り言を言い、また沈んで違う場所に浮かぶというサーカスを幾度か繰り返した。つまり僕の視界に彼の真顔がひょっこり浮かんではブツブツ、また意外な場所に浮かんではブツブツと繰り広げられ、僕はいちいちそれに驚いた。そして、あと少し静かに考えてから出掛けようと思っていたのに、彼はまた僕の目の前の岸に戻ってきて、最後の、
「オエーッ」
聖なる水を吐き出してから、着替え、またヒョッコヒョッコと階段を昇ってどこかに帰っていったのだった。

インド旅行記・座る人々 2005/2/7
『火葬場』

  火葬場まで、また狭い路地をミントゥの案内で歩いて向かった。ミントゥはガイドの仕事をしているだけの事はあって、歩きながらの説明に無駄がなく端的で、ラージャのような細かいイタズラがない。歩みもこちらを気遣って歩度を合わせてくれるから、ゆっくり歩く事ができた。そして、
「ワタシはミントゥという名前ですが、呼びにくいでしょ?」
と僕に奇妙な質問をしてきた。ミントゥ、ミントゥ……大変に呼び易い。僕のヤマグチという名前をインドの人が呼ぶ事より日本人がミントゥという名前を呼ぶ事の方がよっぽど親しみがある。ましてヴァーラナッスィーだとかマニカルニカガートだとか何かと覚えにくい名前がゴロゴロと転がっているこの土地で、ミントゥという名前の発音はオアシスに感じる。断然記憶に残し易い名前の響きである。だから僕はすんなり「そんな事ないよ」と伝えた。でもミントゥはすんなり答えられた事が納得いかない様子。少しはにかんだ物腰のやわらかい声で、
「いや、ミントゥって呼びにくいです。呼びにくいと言われたから、日本人のヒトに名前を貰いました。ワタシの日本名はケンと言います。ケン坊…、ケン坊と呼んで下さい。」
と言った。この知性ある青年の落ち着いた口調から出たケン坊という日本語がいかにも間が抜けて聞こえる。こんな名前はミントゥには合わない。きっと日本人旅行客、恐らくは女性が可愛らしいわぁって気分で「ケンちゃん」なんて名前を考え出したのだろう。ミントゥもケンという日本名にまんざらでもない様子だ。でも、ケンという名前が呼び易いという事があるにしても、ミントゥって爽やかでいい名前にかぶせてケン坊なんて呼ぶのはセンスがないなぁと思った。それに、褐色の肌をしたこの華奢なインド人にケン坊と呼ぶ見た目の違和感の方がよっぽど呼びにくい。呼ばれるご本人はケン坊を気に入っている様子で申し訳ないのだが、僕はミントゥと呼び続ける事にした。


  僕等の歩いていた細い曲がりくねった路地が裏通りだと判ったのは、メインストリートだろうと思われる少し大きな通りに出たからだ。そこに出て左手がガンガーのある方向だった。その左手に折れると、不思議と人の流れる方向が全てガンガーに向かっているような気がした。一度、ここがどこか確認する為、ミントゥに地図を見せて指差してもらったのだが、不思議と頭に入らなかった。これから向かおうとする火葬場の名前も聞いたような気がするのだが、覚えていないし地図にも雑記帳にもメモが書かれていない。この時の僕の思考は完全に灼熱の大地に焦がされて、唯一残された余力で必死に火葬場へ意識を集約していたように思う。ただでさえインドという国には視覚的情報が多すぎる。行き交う人、そこに佇む人の顔や、その仕草、それを許容する土地ぐるみの情報が多すぎる。自分が記憶に残したいものだけを、見ている景色から選択しなければいけないような豊かな国だった。そして、僕にとってここヴァーラナッスィーという街は、特にその色合いが多く含まれている街だと感じていた。そして更に、このヴァーラナッスィーという視覚情報の溢れた街から、火葬場という景色を切り取る準備をしている。

  さて、僕等が歩いているこの道の両端は、いつの間にか幾本もの薪が雑多に積み上げられた山に挟まれていた。その薪の山の前には掘っ立て小屋が建ち、葬儀用の花を売ったりしている。ここで薪を買い、亡くなった人を焼くのだそうだ。値段はミントゥから聞いたのだが、これまた日記にも記憶にも書き込まれていない。僕はこの時、火葬場を直前にミントゥの話は気もそぞろ半分すり抜けて、間近に迫って未だ見えぬ死者の姿に完全に意識を取られていたようだ。一種の緊張感でもあると思う。かすかに、薪の値段は庶民にとってはちょっと高いんじゃないかって思ったように覚えている。そのうず高い薪の山の間を抜けて行く道、もうすでに人が焼かれる煙は僕の鼻に届いていた。少し眼が痛む。何故、ここまで自分が火葬場に執着しているのかは分からなかった。ここまで来たという、或る種の責任感が僕を小さく閉じ込めている気も何となくするのだが…。

  10歳くらいの男の子二人が、その薪を一本ずつ持って追っ駆けっこをしてはしゃいでいる。インドの子供はその鮮やかな褐色の肌の為か瞳が大きく輪郭がしっかりして見えるので、大人よりも強い意思と好奇心を感じた。それは今まで僕が生きて来た環境に少ない宝石の色で、ついつい子供が動くとそれに眼を奪われた。この時も、追っ掛けっこをする二人に無意識のまま僕の眼も追っ掛けっこをさせられていた。そして、追っ掛けられていた子が逃げ切れず尻餅をついて泣き出す。そこに追い着いた子が慰めるように泣いている子の顔を覗き込んで、手に余した表情をしている。僕の眼もそんな彼等を見て、かつて泣き泣かされた僕の原風景を覗き、慰めていた。そこで道行く人の流れが止まった。「わーん」と泣き声の上がっている、まさにその場所に火葬場のガートが広がっていた。

  ガートの階段は、じっとガンガーを見て座っている人で埋まっていた。そして不思議とその人達に表情の変化がない。その呆然と座る人の狭い合間をこじ開けるようにミントゥも僕も奥へ入っていくのだが、彼等はまるで僕等を意識していないようだった。彼等は皆、同じものに見入っているようだが、果たしてその対象が何なのか、僕にはさっぱり見えなかった。階段の下、ガンガーの水際には竹で作られた担架に死者が乗せられ、荼毘を待つのか、沐浴を待つのか、静かに放置されている。遺族が付き添うでもなく、ただ一人で極彩色の布を被せられて階段に傾いたまま眠っている。死者の最後にしては少々乱暴な放置のされ方に見える。そんな遺体を乗せた担架は二つあった。階段に座る人々の視線が、その二つの遺体に無い事は明白だった。ただじっとガンガーを眺めているだけだ。死を痛む、悲しむ、恐れる、一切の感情は太陽の熱を浴びて、ただ淡々とガンガーの上で蒸発しているように見える。僕等は一番奥まで入り込み、河にせり出した高台のあずまやに何とかスペースを見つけた。そこに立ち改めて階段に座る人達を見下ろすと、その無言、無表情なエネルギーに圧倒されてしまう。これが正しい意味での人の群れなのだろう、意思や意味を持たない視線の集まりは人というよりももっと動物的な迫力がある。ミントゥはその階段の奥を指し「あそこで人が焼かれています」と言った。


  あずまやから眺めると、ガートに座る人達の背後に細く坂になった道があり、その坂で人は焼かれていた。僕の方角からは、四角く組み上げられた太い薪の中で、燃え盛る炎に包まれた、男性と思われる足の裏が見えていた。白く血の気の無い足の裏二つが炎の中央に、はえている。それは死よりも生気を感じるほどたくましく、巨大に見えた。ただ、その足の裏はピクリとも動かず、また一向に崩れようともせず火中にある。よく見慣れている筈の足の裏にギョッと息を飲まざるを得なかった。この火葬場と呼ばれる坂道で焼かれているのは二人、その煙と灰は人の水分をシューシューと含んで、湿った臭いがあった。人を焼くとこういう臭いがするのだと初めて思った。それは辺りにむせ返るほど充満していて、僕の眼に沁みて痛みを与えている。その眼を必死に開けてこのガートの風景を見ていると、ここにじっと座って動かない人達が唯一働かせているのは、視覚ではなく嗅覚なんじゃないかと思えた。故人の肌に湿った体臭が、焼かれて灰と共に鼻孔に入り、強烈な印象と親しみを残していくように僕には感じた。この臭いを忘れず、またどこかで嗅ぐような事があれば、そこが輪廻転生の接着面になるかもしれない。むせ返る熱気と人の焼かれる煙を目の当たりにして、それでも戸惑い、感想や感慨から逆行するように僕の意識は薄らいでいった。あまりに二つの足の裏が凛と気迫に満ち過ぎている。それはガートに呆然と座る人々よりも意思が強く感じるほどだ。そのギャップに涙が少し滲んだ。

  暫らくして、ミントゥの口が静かに開いた。
「先ず、ここでは絶対写真を撮ってはいけません。…で、もし人が死んだら、死んだ人の親族はその日から三日間断食をします。…いえ、大人だけです。…いえ、昼の間だけです。…はい、夜は食べてもいいです。」
それからミントゥは僕にこんな説明を続けた。
  まず遺体を火葬する為には、この火葬場のボスにお金を払わなければならない。そして、薪を売る人から薪も買わなければいけない。また、火種すらも買うそうだ。そして火葬の日に親族の中で一番若い人が選ばれ頭の毛を剃り、白装束を着る。そして、ガンガーで最後の沐浴を済ませた後、遺体を薪の中に寝かせると、その白装束を着た坊主頭の年少者が火種を持って遺体の周りを三回回り、火をつける。あとは火葬場の人がしっかり焼け終わるまで面倒を見る、とこれがミントゥの説明だった。その説明を聞きながら、僕が思っていたのはヴァーラナッスィーの街角に溢れている家の無い物乞いの老人や子供たちの事だった。ミントゥの説明では葬儀にやたら買い揃えなきゃいけないものが多く費用が掛かる。買えない者はどうするのか?買えないどころか身寄りもなく孤独な死人は、ヴァーラナッスィーに生まれ、育ち、死にながら、ガンガーで焼かれる事もなく、ガンガーに流され輪廻に向かう事もないのだろうか?と思ったのはいかにも貧相な都会的、日本的な馬鹿げた疑問だった。何故そう思ったかというと、僕のそういった疑問に対してミントゥは即座に「その人を知っている街の人達でお金を出し合って火葬します」と当たり前のように答えたからだ。この街、この国の人達は犬も牛も猿もみんな、僕に見えている仕草以上に深く動物という種族のつながり(生きる為の心底の安心というもの)を持ち合っているのかもしれない、生活保護や保健所など事務的な手続きの存在意義を感じない土地だと思えた。この動物種族のつながりという一点(それはきっと信仰心に大きく帰依したところであると思う)にインド文化の揺るぎない自由さの根幹を感じ、またそこを離れてしまった僕等を思った。僕達は、インドの人よりか断然不安を持ち、人に怯え、病に恐れ、将来へ進む足がキュウキュウとしているように見える。それは、その生き物としての原始的な愛情を持ち合えず、感謝もなく、信仰からも離れ、自分を守るのに精一杯になって不自由になってしまっているからじゃないだろうか。先進国と言われ僕達が手にしたものは何だろう?彼等に勝る豊かなものを実感しているだろうか?結局失う為の足取りではなかったのか。インドより物の値段が固定され、ぼったくりから縁遠い国に住みながら、安心できない人の数は僕等の方が圧倒的に多い気がする。



「焼いてはいけない遺体が五種類あるんですが、知っていますか?」
ミントゥは僕に問題を出したが、僕に考える余裕はなかった。
「一つ目は子供です。これは子供にまだ罪がなく、綺麗な身体だから焼く必要がないという事です。二つ目は妊婦さんです。これはその罪の無い子供がお腹にいるから焼いてはいけないという事です。三つ目は僧侶です。これは僧侶は修行で解脱しているから焼く必要がないという事です。四つ目は蛇に噛まれて死んだ人です。インドでは蛇は神様です。その神様に噛まれて死んだという事は、神様に召されたという事になります。そして五つ目が天然痘で死んだ人です。…これらの五種類の遺体は焼かず、大きな石にくくり付けてガンガーに沈めます」
  僕は黙って頷いて納得していたが、五つ目の天然痘で死んだ人を河に沈めるというのには、少し引っ掛かった。皆が生活用水として使い、また沐浴している河だから、天然痘の菌が感染しないとも限らない。でも、それも、そう誰かに刷り込まれた僕が体験もなく思い込んでいるだけで、結局気にしなくて当たり前にしていたら「お腹を壊したかもなぁ」程度で終われるのかもしれない。信じれる事をまっすぐに行ってこそ、恒久的な安心感を持つ事が出来る。その安心感の元で、結果的に起きてくる事は幸福として汲んでいけるんじゃないだろうか。
  兎に角、ここでみんなが平等に死を迎えられる、死ぬ事が出来る事は明白になった。僕は暫らく無言で二つの足の裏を睨んでいた。巻き上がってくる煙に涙が滲む。こんなに眼が痛むのは、自意識が眼に残っているからだろう。人が浄化されていくこの煙は、そういう曇った眼球に厳しい目薬のようだ。自意識、意義、感慨を次第に剥がされて、僕は風景だけを見る痴呆者のようになった。それが、とても正常にこの場所に立てている事だとも感じる。ここに来た意味なんて持って来てない、ただ来てしまっただけ、実現してしまっているだけなのだ。そんな空っぽの心境になってくると、この熱い空気が慈悲深い救いのように感じてきた。僕は、空っぽのまま汗を流し続け、ミントゥの方に振り返って、黙ってうなずいた。そして僕等は、また、呆然と座る人々をかき分け火葬場を後にした。


帰り道、細い裏路地へ今度は右に曲がりながら、僕はミントゥに質問をした。
「ミントゥ」
「何ですか?」
「ミントゥは生まれ変わりを信じるの?」
「信じます」(それはもう、即座に返ってきた、確信を持った言葉だった)
「そう」
「だから、人に優しくいようと思いますし、助け合おうと思います」
「そうか」
「そうしたら生まれ変わった時に、優しくしてもらえるし、また幸せになれるでしょ?」
「そうかもなぁ」
「そうですよ」

  輪廻転生なんてちっとも大きくなくこれくらいの事?ミントゥの口振りはまるで我が子の幸せの為に働くお父さんのよう。つまりそういう事なのかもしれない。身体はすぐに亡くなるが、自分という空気をリレーしていく考えを持ったなら、大きくゆっくりと自分を見つめられるような気がする。そのゆとりがインドの風景に時間として流れていて、物乞いの人達にも迷いの色がなく落ち着いて見える。中国で見てきた物乞いの子達には会話をする余裕がなかったが、インドの物乞いの子達とは会話が成り立った。
  輪廻転生。自分という空気は永久に無くならず、脈々と引き継がれていく。「僕は、僕が」なんて言うが、自分という歴史にあっては一瞬だけ許された自我意識。もっと大きな、大きな循環に身をゆだねてみたらどうか。地表に現れている間、悩んだり苦しんだり、愛せども苦しんだり、苦しむからこそ喜ばしかったり、あくせくするが、全て大きなゆとりの中のほんの一瞬のゲップのような出来事にしてみたのなら。前世のゲップも誰も知らない、自分だけが知っている自分の歴史。そして、僕のゲップも着実に自分だけの歴史に刻まれ、今日の自分が明日に反映される様に、練習したら筋肉痛になるように、連なっていく。その中で、今の自分が、今ある事を幸福と感じ、心底感謝できたなら、ミントゥの言うように、後生の自分にも同じように幸せを感じて欲しいと、子を思う父のように思えるような気がする。それはとても幸せな事だろう。そして、その入り口、出口がこのガンガーであり、鼻をつく遺体の煙と臭いにあるんだろうと思った。




『短歌書いたん会』の総評 2005/2/2

『短歌書いたん会』の総評

 僕が好きだった授業がありました。それは中学校2年生の時の国語の授業でした。小川先生という三十代前半の男性(当時独身)先生の授業でした。小川先生の国語の授業では正解も不正解もありませんでした。みんなで教科書の文章を読んだ後、小川先生が「さて筆者の考えは?」とか「主人公は何故こう考えたんでしょう?」と問題を出してくれます。そこからはみんなが「ハイ!ハイ!」って挙手して、各々の考えを発言します。そしてその発言を小川先生は「なるほどねぇ」といちいち納得して、丁寧に黒板に書いてくれました。或る子が、本文の中に一文字も登場してきていないような主人公の母親を出してきて「昨夜にお母さんが亡くなったから、こうなった」っていう意見を出しました。それはもう読解力などではなく想像力の世界でした。「それはさすがになしだろう」と思っていたんですが、小川先生は「あり得るね」と言って黒板に『前日にお母さんを亡くしていたから』と書いたんです。みんなはそれをノートにとりました。先生はどの生徒のどんな意見も否定せず、全てを授業に反映させてくれました。それだけに、みんな必死になって教科書を読みましたし、人の意見をどういう事か理解し考えようとしました。僕は小川先生の国語の授業がとても楽しみでした。思えば、今ある僕の頭の基盤はこの国語の授業によって皺を刻まれたのだと思います。将来、こんな授業を僕もできたらいいなぁと淡い夢も抱きました。
 僕がホームページを持たせてもらった時から、ずっとやってみたいと思っていた事はこの国語の授業でした。ホームページのリニューアルに伴い何か新しいコンテンツの企画を考えようとなった時、あの自由な教室を再現してみたいなぁと思ったんです。そこで唄種を考え、真っ先に『短歌書いたん会』を思い付いたんです。当初は難しい事かなぁなんて不安もあったんですが、いざ開催してみると皆さん素晴らしい唄を投稿して下さって、不肖山口は感服しっ放しでした。また、会が進んで投稿数が増してくるに連れて、そのレベルも高くなって来て、正直なところ僕の下手糞な講評でタネーを出すなんて申し訳ないなぁとも思うほどでした。まぁ、そこは主催者のエゴという事で、よしなに目をつむって楽しんで下さい。
 今回の『短歌書いたん会』の投稿総数は72首で、50タネー出ました。この72首というのは僕の予想を上回るもので、大変驚きました。あと28首で百人一首が出来上がるところでした。また機会を見て『短歌書いたん会』を第二回、三回と重ねて唄種・今近材和歌集なんて銘打って編纂できたら、また更に面白いなぁなんて夢は広がるばかりです。今回獲得されたタネーは、これから発表するボーナスタネーも含めて、ここからの唄種にもコンテニューされていくので、20タネー、花の種を目指して是非頑張って下さい。
 

 さてさて、今回の『短歌書いたん会』、各賞の発表をしたいと思います。勿論ここでは紹介しきれない、まだまだ大好きな唄は沢山あるんです。
*各賞には副賞としてボーナスタネーが付き+○タネーと表示されます。


  いつもより賞

   『いつもより 眠い陽だまり 本の上 同じ言葉が 行ったり来たり』  …カラマリ+3タネー

   『いつもより 吐く息白く 遠くまで 雲に混じって 曇り空』  …愛子+3タネー


  ヤマグッティー賞

   『いつもより 君に寄りし 学習机 卒業までに 想いよとどけ』  …キムチィ+3タネー

   『いつもより 綺麗になった ガラス窓 夜空覗けば あら満月よ』  …ことり+3タネー


  モーニング賞

   『いつもより 淡い笑顔で 恥じ入って 今年も宜しく 貴方との朝』  …なつ+2タネー

   『いつもより はやる心に 冬晴れの 身に凍む寒さ 風切りてゆく』  …ヒロ姉+2タネー


  ナイト賞

   『いつもより 寒さに震う 赤ちょうちん 月のあかりに 照りて誘えり』  …鳥肌タツゴロウ+2タネー

   『いつもより 煌煌光る 星星の 隙間を覗く 照れ屋の月よ』  …シャボン玉+2タネー


  新春しゃんそん賞

   『いつもより 池の氷が厚く張り 乗れそうでもあり 割れそうでもあり』  …NEGI+3タネー


  おぉ、色気賞

   『いつもより 人肌恋しい 冬の夜 月見上げれば あなたを想ふ』  …まゆみ+2タネー


  日々鍛錬賞

   『いつもより 伊賀の忍びに 憧れて 二年通った 忍者学園』  …がし+2タネー

   『いつもより 長い日めくり 冬暦 身体鍛えて 老後を思う』  …さりい+2タネー


  オツキサマといっ賞

   『いつもより じっと眺めたお月さん 君は変わらず 僕はがんばる』  …ココナッツボーイズ+2タネー

   『いつもより 静かな夜の 帰り道 空ぶら下がる オレンジの皮』  …カラマリ+2タネー


  唄い人賞(たくさん唄っ種賞)

   1位:ヒロ姉    …9首+3タネー
   2位:カラマリ
      ことり     …8首+2タネー
   3位:ココナッツボーイズ
      よーこ
      キムチィ
      NEGI    …5首+1タネー

ぷらっアットホーム 2005/1/28
 火曜に歌謡の為、7th FLOORに通うという書き出し、まあまあ。聴きに来て下さった方、有難う。いつもよりじっくり唄えたかと思います。7th FLOORでのライヴ自体が久し振りだったので嬉しかったです。懐かしい顔にも会えました。あの日、ステージも終わって、色んな人と話をして、少しカウンターで焼酎を頂いて、色々片付けて、さて会場を出る時に初めて気が付いたのですが、雨が降ってたんですね、今日も小雪の降りかかる筈の天気予報だったのに雨ってのは辛かったなぁ。皆さんは帰り道、水も滴るいい男、いい女で帰れたでしょうか?ヒロ姉のちりめんの着物は大丈夫だったのかっ。僕は濡れ鼠になって、しかも傍ら日記にもありますような髪型ですので、玉のように脳天から雫がポタポタと顔面を転がっていました。渋谷の駅に着き、背中にギターandケース、右手にエフェクターボックス、左手に紙袋(中身は缶ビール8缶)をぶら下げてプラットホームになだれ込みましたら、目の前に駅員さんが立っていて僕を見てました。駅員さんは「濡れてるねぇ」と何でもない見たままの言葉を僕に投げ掛けてきました。その駅員さんを見ると優しそうな面持ちのおじさんで僕に何かの親近感を持っているような雰囲気でした。僕がまだ何も答えないうちから「雨降ってた?」と駅員さんはまた見れば分かりそうな質問を付け加えました。それは終電も近い時間帯でしたし、一日あのマンモス・ステーション渋谷の人の乗り降り、発車の管理をしていたのだから、それくらい疲れていて、気の効いた問い掛けなんて浮かばなくて当然なんです。それでも僕に話し掛けてくれたのだから、僕も荷物の重みを乗り越えて精一杯に答えなくてはと思いました。「小雪の筈なんですけどね」と僕は答えたのですが、駅員さんは笑顔を崩しませんでした。否、それは僕の返答が理解できずただ単に顔が固まってしまったのだと推察されました。二人の会話は微妙な接点を持ち、また大幅に通じ合わず、それ以上の会話を思い浮かばせなくしました。僕等はそこから無言でお互いの仕事に従事しました。駅員さんは間もなく入ってくる電車の受け入れ準備をし、僕はその電車に乗る為に身体中に付着した雨粒を払っていました。けど僕等二人の距離は1メートル半、どことなく緊張感の漂った風景だったと思います。「もう一言、何か話し掛けた方がいいのかなぁ」といった想いは駅員さんと僕に共通している感じはとてもする。こんな都会の人間関係は嫌いじゃない。渋谷駅と云う人ごみの荒波に迷った者同士が気を遣い合って、返って物事が進んでない不器用さがある、しかもこれは一瞬の心遣いであって恐らくは明々後日には忘れ去られている筈だ。こんな都会情緒は嫌いじゃない。

  ライヴのMCでも話したのですが、唄種『短歌書いたん会』がみなさんのお陰で充実した内容で進み、風流風雅の色合いを増してきました。もうそろそろ唄会期間が終了致します。優秀賞、ならびに優笑賞などボーナスタネーも考えておりますので唄心のラストスパートしてみて下さい。

職務質問あれやこれや 2005/1/19
 今日は久し振りに夜の散歩をした。ここんところ長い風邪気味が続いて夜は静かに布団に入っていたから、フラッと夜空を見上げるのは久し振りに感じる。おふぅ、寒いなぁ。当たり前の事だが、一人暮らしというのは僕が静かにしていると部屋から音が極端に減るという事なんだと改めて気が付いた。普段は自分の音で気が付かなかったけど、街の音が部屋の中に結構聞こえてくる。するとパトカーやら消防車やら救急車のサイレンの音が最近増えたんじゃないかと思った。確かに、以前より巡回しているお巡りさんを街角でよく見掛けるようになった。理由が分からないけど、何か物騒な街に変わりつつあるのかなと思うと窮屈に感じたりもする。
  今夜、ポケッと歩きながら考え事をしていると、幾人かのお巡りさんが自転車に乗って巡回しているのを見たし、パトカーが意味深げにゆっくり走っているのも何台か見た。夜道も気兼ねして歩けないなぁ、なんて考えてたりすると、それまで考えていた事はどこへやら行ってしまい、いつの間にかくだらない想像を僕は膨らませて歩いていた。と言うのも、僕は幸い?職務質問というやつを受けた事がない。見てくれが怪しいか怪しくないかは人が見て判断するものだから何とも言えないが、職務質問された事はない。ただ、夜の帰り道で、たまたま帰り道の方向が同じ知らない女性の後ろを歩いていたら、早歩きで去られてしまった事はある程度の怪しさ…何とも言えない。だけど、職務質問ってどんな質問だろう。僕はちゃんと答えられるのか?僕が実際職務質問を受けたらどんな感じになるものか、どう僕は答えるべきなのかを考えてみた。

巡 :「ちょっと、すいません。警察の者ですが、二、三質問してもいいですか?」
僕 :「えぇ、どうぞ一向に構いません」
巡 :「挑戦的な態度だなぁ」
僕 :「そんなつもりは毛ほどにもないのですが、不快にさせたのならスミマセン。謝ります」
巡 :「何か、それが挑戦的だって」
僕 :「まぁ、お巡りさんの二、三の質問に対しては挑戦しようとは思ってますよ」
巡 :「別に普通に答えてくれればいいよ」
僕 :「僕は今まであまり身分をしっかりして生きて来た訳ではないし、僕を僕と証明してくれるものも少ないから、矢張りお巡りさんに僕と云う人を解ってもらおうとする事は、これは挑戦ですよ」
巡 :「まぁねぇ…、じゃあ、頑張ってくれよ」
僕 :「わかりました。二、三質問をして下さい」
巡 :「えぇっと、まず、あなたの名前は?」
僕 :「やまぐちしょうです。山に口。しょうは、綺麗に言うと水晶の晶、格好つけずに言うと液晶の晶です」
巡 :「えぇっと、山に口、で液晶の晶で、山口晶さんね」
僕 :「そっちを取りましたかぁ」
巡 :「液晶の晶じゃないんですか?」
僕 :「いや、液晶の晶ですけど、それはあくまで僕本人が謙遜をして説明をした訳で、お巡りさんの場合は水晶の晶を取るくらいの気遣いはあってもいいかもしれないですよ」
巡 :「…わかりました、わかりました。水晶の晶で、山口晶さんですね?」
僕 :「結構、その通りです」
巡 :「山口さん、ご職業は?」
僕 :「そうですねぇ、…何と言ったらいいか」
巡 :「はぁ?」
僕 :「唄です」
巡 :「うた?」
僕 :「そう、唄」
巡 :「歌手ですか?」
僕 :「まぁ、そういった呼び方もします」
巡 :「歌手…本当に?」
僕 :「嘘をつくんだったら、もっと証明し易い職業を言ってますよ」
巡 :「どんな唄をうたってるの?」
僕 :「どんなって、…それはぁ、…ハハハァァン、こんな感じの。…心の中指のささくれを前歯で噛み切るようなぁ…まっ、腕のうぶ毛にふぅっと息を吹きかけるような、とでも言いましょうか…ルルルゥン…」
巡 :「はい、よく分かりました、結構です。それで、山口さんはどこに行かれるんですか?」
僕 :「散歩です。行き先の決まった旅ではありません。でも、強いて言うなら結局辿り着くのは、いつも、いつもの自分の部屋だと」
巡 :「散歩?こんな時間に?」
僕 :「散歩とは時間の決まったものですか?」
巡 :「決まってはいないけど、常識的な時間があるでしょう」
僕 :「僕は考え事がしたい時、いつでも時を選ばず散歩に出るようにしています」
巡 :「何でまた、こんな人気のない細い道を通るの?これは怪しまれるでしょう?」
僕 :「大通りは車やトラックやらでうるさくて、考え事が静かにできないのです。それに誓ってお巡りさんが怪しんでいるような事をしようなんて、アブラムシのしゃっくりほどにも思っていない」
巡 :「家はどこですか?」
僕 :「いつでもずっと心の奥底にあります」
巡 :「全然分かりません」
僕 :「僕は山育ちですから」
巡 :「分かり易く説明してくれないかなぁ、山口さん」
僕 :「岐阜県ですよ」
巡 :「岐阜からここまで散歩してきたの!」
僕 :「まさかっ、ふるさとですよ」
巡 :「山口さん、私は現住所を聞いているんです」
僕 :「あぁ、そうなんですか」
巡 :「山口さん、酔ってますか?」
僕 :「自分に?そう見えますか?」
巡 :「そういう風にも見えますが」
僕 :「そうなのかもしれません。僕は自分というちっぽけな考え事に酔って、世の中の悩みを全部背負ったような顔しますが、実際はしゃくとり虫のすかしっ屁ほどのケチな…」
巡 :「お酒飲んでますかぁ?大丈夫?帰れる?」
僕 :「おやおや何と失礼な事を言う人だ。幾ら今宵のおぼろ月という美酒に一献酔わされようとも、帰るべきところを見失うほど自惚れてはおりませんぞ」
巡 :「山口さんね、今日も寒いから、ちゃんと家に帰って寝て下さいよ。それに、この辺も最近物騒だから、気を付けて。あんまり人に絡まないようにね」

とまぁ、こんな感じ。考えていたら、何だか自分がとっても怪しく、証明のない人間だとわかった。と言って、全く為す術のない夜だ、仕方がない。


切な色 2005/1/11
 先日のO-Crestでのライヴがあった次の日、僕はあろう事か商売道具を忘れて帰って来てしまった事に気が付いた。忘れ物とは、ピックやハーモニカやスライドバーが入った缶の小物入れ。慌ててO-Crestに電話して探して頂いたら、見つかったので今日引き取りに行ってきた。O-Crestのスタッフの方々には忙しい中、僕のうっかりを探して頂いて、僕は恥かしさのあまり恐縮するしかなかった。つまり、僕は今日も渋谷に行った訳だ。
  電車に乗っていると振袖を着た女の子を幾人か見掛けたので、あぁ今日は成人式なのかと実感した。僕が20歳になった年は、留学中だった為に成人式には出られなかった。あの時、北京の教室の窓から同級生がどんな美人美男子になっただろうかと想像していた。成人式には別に興味はなかったけど、友達に「この機会を逃したら二度と会えない奴だっているんだぜ」と言われて、もっともだなと納得してしまった。この退屈な授業を聴いている今、日本では僕が二度と会えないかもしれない懐かしい人達が晴れ着に身を包んで、僕も知っている懐かしい話とかをしているのかなぁ…なんて考えていると、ふっと故郷に捨てられた気がして切なくなった事を覚えている。だから、毎年この成人の日は何だかキュンと切なくなる事が多い。随分後になって、同郷の成人式に出た友達が「誰それが、派手になって」とか「カクカク、シカジカの仕事をしてるそうだ」とか、僕に気を遣って同級生達の消息を教えてくれたんだけど、僕はそのカクカク、シカジカの顔を見ていないから実感が持てなかった。それが余計に故郷との距離を感じる事にもなった。故郷を離れて、もう十年を経た。


  僕はO-Crestからの帰り道、東急本店の前を通りかかった。そして、信号のところで正面玄関を眺めていた。何年か前だったか、唄を続けていく為に、ここで路上ライヴをやった事がある。今から思うとライヴと呼べるような唄じゃなかった気がする。そりゃぁ、街の音と風に乗って自分の声やギターの音は吹き飛ばされてしまうし、僕の唄は道行く人に「哀れだなぁ」という視線を投げ掛けられる程度のものでしかなかった。強烈なやめてしまいたいという気持ちが込み上げ、それは返って何回も何回も僕を唄わせた。あの日の帰り道の記憶がない。

ヘッドフォーンから『駅前オンステージ』を流してみた。切な色だ。

  僕が記憶を辿る時、僕の脳裏に刻まれていた過去の出来事はいつも切な色をしている。大はしゃぎした事も、嬉しかった事も、苦しい、どうにもならなかった悲しみも、笑えて仕方なかった事も、全部、切ないという感情で記憶にしまわれている。僕の傾向だろう。

  渋谷からの帰り道、電車の窓から見慣れた街の足元は暗くなって、知らない街のように見えた。そんな暗い車窓が代々木の駅についてパッと明るくなる、降りる人並みの切な色。カクカク、シカジカ誰だか知らない女の子と眼が合って、僕の視線はあっという間に地面に叩き落された。風邪気味の喉が痛い。マフラーの中に漂うかりんの匂いが切な色。僕は以前、古本をよく買った。よくある事なんだけど。読み進んでいくと、ある頁に新聞の切れ端が挟んであるのを発見するんだ。きっと前の持ち主が挟んだものだろうけど、その新聞の切れ端は、丁度日付の一部で、そこには昭和という年号が古ぼけて書かれてある。そして改めて手にしている本の黄ばみを確かめて、一度本を閉じてしまう。あんな気持ちも切な色。今日は沢山の切な色を見つけてしまう。代々木から大江戸線の地下深くまで、僕の歩度は自然と遅くなった。一歩一歩、何かを思い出そうとして歩いている気がする。何かのきっかけで僕は生きてきたんだろう。きっかけがあって僕はこんな性格を持ち、幾つかの表情をするようになった。今、僕はこの切な色の呪縛から逃れるきっかけを探して地下へ地下へ、記憶の底、切ない深部へ歩いているのかもしれない。

秀水 2005/1/9
 僕が北京に留学している時、よく遊びに行った秀水街という露店街があった。何をするという理由を持って遊びに行っていたかのかは、今になっては定かではない。ただここに遊びに来て、狭い道を挟んだ露店の活気を見て歩くのが好きだった。でも、ここが先日のニュースで取り壊されているのを見た。確かに、ここにはブランド物のまがい物があったり海賊版のCDが売られたりしていたから、摘発の対象になるのは北京オリンピックを控えた中国当局にとって当然の話なのだろう。ただ、思い出が詰まった街がテレビ画面で取り壊されていき、そこで働いていたオバチャン達が泣き叫びながら「私達の街を返せ!」「私達は明日からどうやって生きていったらいいの!」という言葉に切なくなった。ブルドーザーは多数の警官に保護され、思い出の街とオバチャンの心は無防備のままバリバリと壊されていった。


  単純にブランドという人の名前や会社の名前の付加価値と、オバチャンやそこで働く人達の生活とどっちに重みがあるものか考えてしまう。農村の方から生活の為に出てきて、必死に商売をして家族を養っている人達がいた。それを泣き潰すだけの根拠がブランドにあるだろうか?ブランド品をあたかも自分のステータスかのように身に着けて歩く人が、そのオバチャン達の前を歩いたらさぞかし滑稽な図になるだろう。


  どんな国にも独特の湿った空気を持つ街がある。インドのデリーでコンノートプレイスに行った時も、日本の電化製品のようで名前の綴りがちょっと変えてある類似品を沢山見た。僕はこういう街に漂うそんな臭気が好きだった。生きる為の発想の自由さ、面白さ、これ等は僕に欠如しかかっているものだ。そして、その自由さには一種のデンジャラスな裏世界の臭いもするし、生活の為に必死に僕から金を巻き上げようとする同年代の子達もいた。買い物に来ている客もそれを楽しみ、子供の為のおもちゃを買い、彼女の為の服を背伸びして買っている。この秀水街という場所も、そういった結界に守られた無法地帯だった訳だ。値段はあってないようなものだし、友達と同じような物を買って「あぁ、俺の方が安く買えたぜ」という会話も出来た。この街に働く人達はデパートの中の店員とは違って、矢張りそれだけのエネルギーを持って生きていかなければならない。僕はそこを歩いて人の可能性、生き方を学んで来た気がする。
みんなもきっと同じ感覚があると思う。デパートやスーパーなんかではなく、野菜を量り売りしてくれる八百屋のオッチャンに「お姉ちゃんベッピンだね、まけとくよ」なんて言われ、少し多めに白菜を買って帰る時の「アタシやればできるじゃん」という気持ちは矢張り格別じゃないかい?夫婦で切り盛りしている魚屋の元気の良さに「俺も今日はちょっと声を大きくして過ごしてみるかな」とかさ、活気っていう言葉はこういう場所に使うでしょ。


  ビル、アスファルト、こんなものはどの国に行ったって同じなんだよ。生きる人、土、臭いまでもがなるべく無臭であるようにその文明や倫理や平和に閉じ込められていっているのが現代のような気がする。だから世界は同じ灰色になりかかっている気がする。活気に満ちた、生きる為の市場に平和はないよ。気を抜いていれば有り金をかっさらわれてしまう。きっと日本も昔はそんな場所が沢山あったんだろう、戦後のがれきの上で闇市が栄え、人々は米やら塩やら、兎に角双方が必死であったのだろう。

  北京オリンピックの招致の為に、北京は随分変わっていくのだなと実感した。これに似た現象は自分の田舎や、はたまた今住んでいる街にも感じる事が多い。これは新しく出来てくる便利なものへの嬉しさよりも、矢張り僕にとって寂しさが多い出来事である。

唄い初め2005 2005/1/6
 昨日渋谷のO-crestでライヴをしました。つまり2005年の唄い初めになりました。風がググンと冷たい日でしたので、足を運んで下さった方、本当に有難うございました。ライヴ後にご挨拶ができた方もいらっしゃって、それはそれは僕にとって至極楽しい事でした。唄った後って僕は放心状態になっている事が多くて、なかなかうまく言葉にならないのですが、嬉しい瞬間なのです。また、お話できなかった方とは、改めて新年のご挨拶できたらいいなと思います。何はともあれライヴ、ライヴから少し遠のいていたのと、東京でやるライヴ自体がすごく久し振りだったのもあって、ステージに上がる前から楽しみで仕方ない状態でした。ライヴハウスに入って自分のリハーサル前に色とりどりのステージを眺めていると、不思議と僕はにやけていて、「そう、ここなんだよなぁ。ここにいなきゃなぁ」としみじみ思ったんです。長い間水をやり大切に育てて来たつぼみは、どんなにか苦しくとも、今夜唄った瞬間、それは本当に一夜限りの花が咲く。ステージが終われば、そのマイクもギターも照明もガランと片付けられて灯りを落とす。一陣の風がうなりを上げて雲の中に舞い上がったみたい。自分があんな綺麗な舞台に上がっていた事なんて嘘みたいに感じるような、そんな一夜の出来事に僕は魅せられて今の今まで唄って来れたんだと改めて感じた2005年の始まり。これほどの新年の実感はないなぁ。
  さてさて、これは本番直前の話なんですが、ステージの袖でマネージャーの太一君と一悶着ありまして、太一君が言うには「お前、背中からシャツが出てるよ」との事。確かに僕の上着は背中の部分の丈が短かったので僕はそんな事もあろうかとは思っていたのです。でも、ステージ直前という事もあり、さすがに着替えることは困難であろうと僕は「よしんば背中のシャツが出る事があったとしても、僕は前を向いて唄ってるから、お客さんに背中が見える事はないと思うよ」と言いました。とは、言いながらもその背中では一生懸命にシャツを入れていたのですけど。それでも心配そうな顔をする太一君に安心してもらう為に僕は「今日のコンセプトは70年代風フォークシンガーでございますよ」と説明しました。しかし、僕の好意とは裏腹に太一君は「そのままだよ…」と言ったきり心配は拭い去れない様子でした。「いたし方ない。じゃあ、ちょっとカジュアルなプロゴルファーでどう?」と僕は背中からシャツが出るかもしれない疑惑とは関係ない安堵を促したらば、太一君も「あ、それなら納得」と本番。さて行くぞと、意気揚々とステージが始まった訳です。
  そして、僕のステージは終わり、次に出演している大森洋平君のステージを見ようと僕は客席に出かけました。その途中のロビーで聴きに来ていてくれたタハティさんに会いました。「これはこれは」と近付いて行くとクスクス笑ってるから何事だろうと思っていると「晶君、背中のシャツが出てたよ」とご指摘下さいました。うぬ?ステージ上でいつの間に僕は背後をとられてしまったのか?一武士として、侍としての不覚を一生懸命に思い出そうとしましたが、すんなり「水を飲む時、後ろを向いてたよ」とこれまたごもっともな説明を受けて、そりゃそうだよなぁと納得しました。下の写真はその驚愕の証拠を隠しカメラで衝撃スクープされたものです。以後気を付けよう。
  何はともあれ、唄い初め。今年も始まったなぁ。(当分はこの言葉を言わないと気が済まない様子)


あけましておめでとう2005 2005/1/5
 雪が降ったのは、大晦日でした。そして、年明けなかなか寒い元日を経てぇ。
  あけまして、おめでとうございます。
  僕の住む部屋は年中、太陽の光が射し込まないんですよ。だから、凍える。ニュースの天気予報が何ボ暖冬だと教えてくれても、部屋の中を電気ストーブと共に右往左往する僕には実感がないんです。だから、大晦日もそんな体で部屋を電気ストーブと共に右往左往して大掃除をしてました。最近は、一日に一回は部屋に掃除機を掛ける事を日課にしていますので、そんなに汚いという感じもしないのです。ただ、埃は溜まらなくとも、洗濯物は矢っ張り溜まります。汚れ物のまま靴下やシャツ達を年越しさせてはまずかろうと、それは洗濯機を2回まわす山に挑みました。洗濯機を回している間、その隣で今度はコップや皿など洗い物をしたのですね。そのキッチンのお湯を出した時、すりガラス越しに見えるベランダのガスの湯沸かし器から白い湯気が立ってますから、「はて?故障かな?」と思ったんです。そして窓を開けてみると外に雪が降っていたという事でした。僕の部屋から見える空は大変にチビっこいので、部屋の中から容易には天気がうかがえないのです。「はぁ、雪だ雪だ」と素直に嬉しかったのですが、僕は洗濯機を2回まわしてしまっている男ですので、これは干せないと。大晦日、正月に向けて僕の部屋の風呂場は洗濯物のジャングルと化し、乾燥機は年末の休みもなく働き続けた訳なんです。山崩れ、ジャングルと化し、年越し、年越し。
  さて夜を向かえ、如何に新年を迎えるか友達と考えた訳です。大した奇抜なアイデアもなく、銭湯に行って毛穴の奥の汚れまで落としたらいいんじゃないかと案が出まして、「おぉ、年越しっぽいな」と基準の曖昧なジャッジがおりまして、僕等は新年の30分前に出掛けたんです。僕等の住む練馬界隈に知っている銭湯は2軒。雪が凍りかかった、グシャグシャなシャーベット通りをにじり歩いて行きました。そんな道を、新年の抱負を語り合いながら歩くなんてぇのが情緒なのですが、僕等に大した年末の感慨もなく、「うわぁ、靴濡れるっ」「いややぁ、冷たい」というのが会話でした。そして、まぁ銭湯について結論を言ってしまうと、2軒とも終わっていたという何とも年末らしいオチだった訳です。だから、僕等はそこからプランを大幅にカットしまして、正月12時02分、初詣に向かいました。
  練馬文化センターを少し西へ、凍った坂を下りますと、普段はスーパーボールのくじが売っている駄菓子屋さんがあり、昔懐かしい駄菓子をオバちゃんが売っています。その前に神社があって、大晦日には賑わっております。僕等がほうほうの体で坂を下りますと、新年を迎え立ての人々が行列になって参拝の順番を待っていました。テントでは甘酒が配られ、僕等はそれを頂きながらその行列に新規参入するかどうかを考えていました。でも、僕は何しろ待つ事が得意ではありません。幾ら美味しいラーメン屋であろうとも、並んでまで食べたくない兎年の男です。だから、他の場所で初詣をするという方向に体制は傾きつつありました。そんな僕等の会話が進行していると、ふらっと能舞台のような建物の上でオジさん二名が鼓と笛を鳴らし出しました。何事が起きるんだろうと興味シンシンで見ていると、行列に獅子が舞い始め、参拝を待つ人々の頭を次々にかじり始めました。かじられた人も今日ばかりは有り難そうな顔です。獅子は一通り人の頭をかじり終えると能舞台に上がり、今度は一人で舞い始めました。途中、獅子は自分の股間をかじってみたり、みかんを追っ掛けたりとても面白い舞いで人々の正月気分に花を添えていました。これは初めて見る舞いでとても楽しかったです。獅子舞は堪能しましたが、参拝はせず僕等はその神社を後にしました。
  今度は坂道は上りです。ふんばると足元が下ってしまう困難な道でした。僕等が必死に上っていると、初詣に急いでいるオバちゃんが勢い良く、半分滑りながら反対から下りていらっしゃったので危なっかしかったです。僕等は「ゆっくり、ゆっくり」と声を掛けました。が、神社を目の前にしたオバちゃんの前では無力でした。オバちゃんは直滑降で滑り降りていきました。ビュンと鳴る疾風の如き新年オバちゃん。
  僕等は、文化センターに戻って駅前商店街の中の寺に行きました。そこでも甘酒を出していましたが、さすがに口の中が甘くなりすぎていたので遠慮しました。そこはさほど混んではいなかったので、ゆったりお参りできました。賽銭を投げ、鐘を鳴らし、手を合わせて、心を無にし、去る年に心を残さず、来る年にも期待はしない、この一年ただ一念に無心夢中であるよう自分に言い聞かせ、眼を開けました。僕はちょっと長く眼を閉じ手を合わせていたようです。順番を待っていた友達に「お願いし過ぎ」と言われました。そこで、あぁ、お願いするという手の合わせ方もあったんだなと思いました。が、もう僕は初詣を済ませてしまったので、そのやり方は来年までとっておこうと思いました。帰り道、ししゃも婆ちゃんがいる天婦羅屋に灯りがついていて、中からオジさん達のはしゃぐ声が聞こえました。いつも通り、今日が昨日になっただけ。今年も、どうぞ宜しくお願い致します。今日も宜しくお願い致します。あぁ、毎日が新しい。慣れない雪道を歩いたら、足腰が暫らくフニャフニャになった感触がありました。
  謹賀新年、宜しくねん。今年もみなさんに唄を届けれるよう精進して参ろうと思っ酉ます。

2005、元旦
[ 2011年〜2010年/ 2009年/ 2008年/ 2007年/ 2006年/ 2005年/ 2004年/ 2003年/ 2002年 ]