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新しいって云ふ気分 2004/12/27
 暖冬なんて言葉には近年とんと驚かなくなりましたが、昨日から妙に寒く感じ始めまして、冬だというのに寒くなる事の方を驚きおるリニューアル日です。何よりの寒がりですから、この季節は過剰防衛な重ね着でプクプク膨らんで外に出ます。ダウンジャケットの中は結構温かくて、まるで気球が歩いているかのようです。きっとそのうちには宙に浮くやもしれません。建物の影の隙間、日なたを探して路地を右へ左へ横移動をしながら目的地へ歩くのですが、一風ピューッと煽られて、身が二・三回転ねじれる思いです。陽射しは随分暖かいのにね。そんなお天気のもと、お陰様でこのホームページも心機一転する事ができました。各コンテンツには僕の写真も沢山あって、渋く物思いにふけってらっしゃるが、概ね夕飯は何にするかを勘考していた顔です。まだちょっと日は残っておりますが、一足お先に新年を迎えた気分で慕夜記を書初めです。新しいこのホームページでは写真も添付できるようですので、早速、インド旅行記に数枚の写真を載せておきました。また、唄種というニューコンテンツでは風流を皆さんと学んでいきたいなと思っております。や、こんな感じで文字も飾る事ができるの、ですね。何はともあれ、リニューアルめでたし、めでたし!

インド旅行記・河 2004/12/16
『ガンガーに至る』

  矢張り寝台車での睡眠とホテルでの仮眠だけでは、ヴァーラナッスィーの陽射しに対抗しきれない。足取りがユラユラしているのが自分でもわかった。しかもガート附近の旧市街は予想以上に道が狭く細かい、ラージャがいなかったら簡単に迷っていただろう。露店、野良犬、野良牛、野良の猿、牛糞までが額を付き合わせ道を入り組ませている。が、ラージャには勝手を知った細道である、のしのし得意気に先導して歩いていった。こんな大威張りの歩きっぷりをする人間は最近では見なくなった気がする。この歩みにおいていかれないようにしながら、僕の眼は街の営みを見なくちゃならない、街とラージャと足元と、僕の眼は忙しく行き来していた。そして僕の気分は静かに、街の風景を億万画素より丁寧に脳裏に焼き付けていた。それは矢張り人が見ると沈鬱だと思われるような表情だっただろう。でも僕にとっては腹の底のグツグツ煮えたぎる高揚感なのだ。

  道の半分近くを占領する露店があり、色とりどりの果物が売っていた。普段はフルーツなんて興味のない男なのだが、その色鮮やかさには眼を奪われざるを得ない。が、どれがどういうフルーツだか判らない。「へえ〜、インドのマンゴーってこんな色でこんな大きさなんだ」っていう風な驚きがない。花を見てもそうなんだが、こういう時に自分の無知に大変損した気分になる。それでも、判らないなりに顔をにゅ〜っと突き出し、近付いて眼を凝らしてみる。すると、これはフルーツなのか?と思われる物体を発見した。それは何て事なく人間であった。青いサリーを着た老婆が小さく丸まって眠っている。痩せた褐色の肌をのぞかせ、何とも言い難い優雅な姿で昼寝をしていた。この露店は老婆も売っているんだなと思った。みずみずしい新鮮なフルーツに皺枯れた新鮮な老婆、どちらも決して見劣りしない命の濃さがある。また暫く歩くと鉄の格子が張られた窓を見かけた。それは陽射しもなく灯りもついていない真っ暗な民家だ。そっと覗くと身動きしない爺さんの眼が白く光っていた。僕が眼をそらすまで、その白く光る老いた眼球は僕を凝視し続けていた。真っ暗な部屋に座ったまま動かない爺さん、その白い眼だけは爛々と潤っている。老いても命の濃さは失われない、衰えていく事はエネルギーを失っていく事ではなく、ひとつに凝縮していく事なんじゃないかと思った。そう考えると老いる事に希望を見つけた気がした。
  また、石畳でできた四辻の路地があって、その一角にヨーグルトなのかチーズなのか吹きっさらしの店で男達がわいわい働いているのを見た。立っているだけでも汗が噴出するこの街で、何しろ乳製品が発酵している。衛生に敏感ではないのだが、一言は言いたくなるような光景だった。あっけに取られたまま何も聞けなかったが、乳製品があまり得意でない僕は街で出されるチーズとヨーグルトにはくれぐれも気を付けようと誓った。

  建物が肩を寄せ合って視界を狭くしている。ガンガーに近付いている実感を持てないまま歩き続けていると、不意にラージャが右を指した。街角に水飲み場があり、建物の隙間になってポッカリ視界を開けていた。ラージャの指先に促されるまま、僕の鼻先がほいっと右を向くと、黄土色の水面が泰然と眼の前に迫っていた。「あっ」と気が抜けたような声が出た。想い続けた聖なる大河は意外にあっけなく姿を現し、ふくよかな波の懐を僕に惜し気もなく見せてくれた。これがガンジス、ガンガーです。

  水飲み場の脇から河岸に下る階段があった。ラージャは得意気に何かガンガーについて説明をしようとしたが、僕は聞いてられない。「これがガンガーなのかぁ」と思うといてもたってもいられない気分で、ラージャを追い越して階段を下った。


『何故こだわる?』

  まさにそこはガートと呼ばれる場所だった。ガートは階段状の岸辺になっていて木船も何艘か停泊されていた。人々は沐浴や釣りや水泳、様々な営みの為にここに訪れる訳だ。みなさんもよくテレビや写真などで見掛ける事があるでしょう。しかし、僕が立っていたのはそんな大勢の人が集う盛大なガートとは違って、民家の影に隠れてできたような極小規模で、極地味なガートだった。でも、その素朴さを僕は探していたから、ガンガーとの初対面は大変好印象で嬉しいものだった。観光客もこのガートには見当たらず、ゆっくり自分の時間を作れる場所であった。
  確かにラージャの言っていた通り、ガンガーは雨期の為に増水したのであろう事は見て感じた。川幅は広く流れも早い。雨期でなければ、岸辺を歩いてガートからガートへ移動できるらしいのだが、今はその道はすっかり水没してしまっている。ラージャはこの川幅を3キロあると説明したが、僕の目測では一番広い川幅でも700メートルといったところだろう。ラージャは下流を指差した。
「見ろ、あそこに煙の上がっている場所が見えるだろう。あそこがお前の行きたがっていたマニカルニカガートだ」
僕は未だに衰えを知らない視力2.0の眼を最大限に凝らして、煙の立ち上がっているガートを眺めたが、その詳細を見るにはさすがに遠すぎた。幾艘かの船が観光客を乗せて水路からマニカルニカガートを目指しているのを見るので精一杯であった。
「なっ、こんなに河が増水しているからリクシャーであそこに行くのは無理だ。もし、どうしても行きたいんだったら船に乗るしかない。もし船で行くなら俺の友達を紹介するぞ」
その観光船は一時間、幾らだったか覚えていないし、日記にも値段は書かれていないのだが、とにかく高くて乗れないやと思った事だけは覚えている。一時間小船に乗り、水夫二人に漕いで貰ってガンガーから街を眺めるという乗り物は悪くないなと思うのだが、幾分かの外国人税的価格が気になって乗る気になれなかった。にしても、わざわざ水路を使わなくたって、街の中を陸路で行けばマニカルニカガートには行けるはずだと思った。ラージャはガンガーの増水を僕に見せれば諦めてくれるだろうと思っていたらしいが、僕はその意には沿わなかった。
  あのレンガ色の塔や建物の間から上がる煙を見ていると「そんなに遠くないよなぁ」と呟いた。実際、日本でインドってどんな国だろうと想像していた時と比べれば、その見たかったものは物凄く間近に見える。こうしてる間にも煙は絶え間なく上がっている。今もまさにあの場所で人が焼かれて煙になっている。その遺灰は、今まさに僕の目の前にあるガンガーに流されているのだ。ガンジスという大河を考えると、決して川幅や水量で判断された大河ではないと思える。容積で言ったらガンガー以上の河なんて幾らでも見る事があるだろう。しかし、他の河には見られない特異な体質がガンガーにあり、その迫力はただ大きいだけの河を遥かに上回る気品を漂わせて泰然と流れている。その根源はマニカルニカガートにあると思った。ただ人が焼かれている光景を見たい訳じゃない。このガンガーの性格からにじみ出る迫力の理由、ガンガーが大河と呼ばれる所以を知りたいんだ。その鍵が、あの火葬場マニカルニカガートにあると思っていた。長年行きたいなぁと願っていたインドという国にやっと来て、見たかったガンガーにも到達した。でも、今、やっとマニカルニカガートを数百メートル眼の前にしているのに、指をくわえて近付く事ができない。この時期が雨期で近付けないならば、雨期に滞在中の僕には見る事は叶わないという事になってしまう。それはいかにも口惜しい。僕の唯一の目的は果たされない事になってしまう。
  僕はストロングに不可能を主張するラージャを是が非でも説得しなければならないと思った。最悪、チャーター費を棒に振ってでも別の方法でマニカルニカガートに行かなければいけないと考えていた。
「とにかく街を通って近くに連れて行ってくれ、そこからは歩いて行く」
ラージャは呆れて首を傾げた。どうしてこの日本人は火葬場に執着しているのかが判らないというような大きな溜息をついた。
「OK、判った。ちょっとここで休んで待っていてくれ、俺の日本語の先生を呼んでくるよ」
とラージャはそう言うと、階段を駆け上っていった。恐らくお互いのカタコト英語では話が完全に理解し合えないと思ったのだろう。この旅行記に書かれている会話は山口心の意訳であって、実際はもう少し陳腐な英語を使っている。暫らく僕がガンガーを眺めているとラージャは幾人かの近隣住民を連れて戻ってきた。僕を物珍しげに囲んで、少し穏やかなムードになって話をしなおした。が、肝心な事になると会話はヒンズー語同士でなされ、何を話しているのかさっぱり判らなくなってしまう。僕はその会話を眺めている事しかできなくなってしまう。さて、弱ったなぁと思っていたところ、一人の大人しそうな青年が階段を静々と下りてきた。


『ミントゥ』

  ラージャが「日本語の先生」と言っていたのは彼の事だった。彼と僕は日本語で挨拶を交わした。彼はミントゥという名前だった。その言葉つきや仕草から、ミントゥはとても上品な人間に思えた。それは対照的にうるさいストロング・ラージャが近くにいたせいもある。僕はミントゥとゆっくり話した。彼の仕事は、日本人相手のガイドだそうな。今日も日本の女性が二人、ヴァーラナッスィーに来るから迎えに行かなくてはならないという。そして、僕はミントゥにもマニカルニカガートに行く方法はないか聞いたが、矢張り無理だと言う。どうにも合点がいかないが、ミントゥの物腰の柔らかさに僕の強固な主張も緩めざるを得なかった。まぁ、ヴァーラナッスィーには三日間の滞在だから、その間に何度かトライしてみようと思った。と思ったら肩の力が抜けて、みんなと談笑する事ができた。
  僕は一息入れようと思い、煙草を出して吸った。一本ミントゥにも勧めたが断られた。その理由もラージャと同様、どこか不思議な理由に聞こえた。ミントゥの家は僕等が立っているガートのすぐ裏にある、そこには母や父、家人がいる。その前では決して吸ってはいけないと言うのだ。ここは家のすぐ前、親不孝はできない、というのが理由だった。しかも、ミントゥ自身が自分の事を日本語で説明してくれてるだけなのに、側で周りの住人達がそれと同じ事を丁寧にヒンズー語や英語で混ぜっ返しの通訳をするという奇妙な会話で、僕はへぇ〜以上の言葉が出なかった。
「いいです、いいです。これは僕の家庭の話ですから、貴方は気にしないで吸って下さい」
ミントゥは気を遣ってくれたが、僕はすでに煙草に火をつけた後だった。僕は何か申し訳ない気分で差し出した一本をしまおうとしたら、そこに元気よく口をはさんだのがラージャだった。
「俺が吸うよ」
「お前、さっきストロングでいる為に煙草は吸わないって言ってたじゃないか」
「お前の為に、今日初めて俺は煙草を吸うよ」
「いや、別にいいよ」
引っ込めようとした僕の手からラージャは煙草を奪うと、口にくわえて、手で火をつけてくれのジェスチャーをした。この時点で僕の脳裏にはラージャの野郎、スモーカーだなと思っていた。そして火をつけてやるとラージャは大袈裟にゲホゲホと咳き込んでみせた。が、矢張り普通に吸える、吸っている人間だった。見え透いた演技だったが、この阿呆らしさに馬鹿な日本人とインド人が、気持ちを同調して笑う事ができた。笑いは地球共通の言語である。僕等はまた暫らく談笑を続け、その間にラージャは僕の為にサモサを屋台で買って来てくれた。それを頬張りながらミントゥと話していると、ミントゥは僕にそっと重要な事を教えてくれた。
  火葬場はマニカルニカガート以外にもう一箇所あると言うのだ。しかも、その火葬場はここから近いらしい。火葬場は一箇所しかないと思い込んで諦めていた僕には急に緊張感が走る一言だった。ミントゥは日本人の女の子の電車が着くまでまだ二時間くらい時間があるから一緒に行って案内してあげると言ってくれた。僕はにわかに飛び込んだその話に気持ちを引き締め直し、ラージャにはここで待っていてくれるよう頼み、ミントゥとそのもう一つの火葬場へと歩いて向かった。




インド旅行記・更に続三日目 2004/11/15
『音…、壊れる音』

  ホテルのベッドに横たわり、僕がグースカ眠る間にホテルでは停電が起きた。部屋のエアコンの音がゴウンと言った切り静かになった。はて?停電か?と薄い意識の中で思ったが、僕にもホテルにも動揺はない。暫らくするとけたたましくモーターの回るエンジン音が鳴り始めた。するとまたゴウンと言ってエアコンが回り出し、ホテルの電源が復活した。サブの発電機でも回っているのだろう、結構やかましい。でももし、こんな事が日本で起きたら苦情の一つも言わなきゃ気が済まない客が現れるだろうなと思う。この停電とモーターが回るエンジン音のセットはこの後昼夜を問わず幾度か起きたが、僕は気に留める事なく当たり前の事だと思って過ごした。結局、どうにでもなっていく事なんだ、でも、なくちゃ何にも出来やしないと思い込んでいる日本の文明がある。そこで余分な苛立ちを作って発想力にブレーキをかけている気がする。こんな事が重なって日本人は心を狭くし、幸せを減らしている気がする。この一事だけでも、遥々インドまで来なければ、これほど身に沁みる事はないだろう。大まかな目的の一つに、この気分を味わいに来たかったという事がある。豊かな眠りは12時までしっかり続いた。

  ホテルの門を出る。赤いターバンを冠り、八の字に広がる豊かな髭を蓄えた門番の爺さんが「Good evening, sir」と寝惚けた僕を送り出してくれた。ヴァーラナッスィーの太陽は惜し気もなく光と熱を街に降らせている。30秒ともたず僕の身体は汗を噴き出し、眩しくて顔をしかめてしまう。始終眉間に皺が深く寄ってしまうから、この旅の為に一応持ってきたサングラスをした。そんな僕と、惜し気もない太陽をものともしないストロングなラージャは、約束通り門の前で待っていてくれた。元気過ぎるのが寝起きの頭に痛いくらいだ。

  さて、どこに行くかだが、僕はガンジス河(現地ではガンガーと呼び合った)を見たいという事以外にあまり考えを持っていなかった。ガンガーには、河岸に沿ってガートという階段に出来た街があり、西岸はそのガートによって形成され、多くの巡礼者や地元の人々の沐浴の場となっていた。種々様々なガートがあるのだが、僕にとって特別な想いがあったのは火葬場になっているガートだった。そこでは亡くなった人が河岸で最後の沐浴を済まし、焼かれ、ガンガーに流され、生まれ変わる旅に出る輪廻のある場所だと聞いている。その人の最後を担うガートを、僕は見たいと思った。何故だという根拠よりも先に、行かなくちゃという思いの方が強かったように思う。
  人が死ぬ、そして焼かれる、河に流される。
  人は絶対に死ぬ、僕も死ねば、君もいつか必ず死ぬ。あまりに使い古された、物理的で当たり前な出来事なんだが、それを目の当たりにして果たして物事の道理とだけ感じるのだろうか。生きてしまい、死んでしまう、これだけは自分の意思じゃない。聖なろうが、なかろうが、ガンガーで死を迎えた人達を見て、どこまで自分の意思で生きる事が出来たのか聞いてみたいと思った。僕は一種の信仰心を探していたのかもしれない。それは何々教とかウンたら教に入信したいという事ではなくて、自分が自分でない力によって生きている感慨、川面に流される葉のように、時間を生かされてしまう事をはっきり実感したい事だった。自分の夢や人生、愛や苦しみなどは、歴史の中の一瞬の放屁にも値していかないという事を、揺るぎない事実として感じたかった。これが信仰心らしきものになって僕の人生の拠り所にはなりはしないかと、あまいと言えば砂糖のようにあまい想いを持っていた。

  地図を見ると、ガンガーの火葬場といえばマニカルニカーガートという舌を噛みそうな名のガートしか見当たらない。僕はラージャのオートリクシャーに乗り込むと、マニカルニカーガートに行きたい旨を告げた。するとラージャは首を横に振り、元気良く僕の意見を拒んだ。北インドはこの時期、雨期に入っている。ヴァーラナッスィーも雨が多いらしい。この為ガンガーは増水して川幅を広げ、マニカルニカーガートには近付けないと言うのだ。でも、そこに人がいない訳じゃなし、近辺には住んでいる人もいるだろう、オートリクシャーで入る事は困難でも、歩いてなら行く事は出来る筈だ。それが行けないとは、到底理解できない話だと思った。僕は強固にマニカルニカーガートへ行く事を主張したが、ラージャもまた強固だった。狭く暑いオートリクシャー内で舌を噛みそうな押し問答が続いたが、結局、双方の意見は「兎に角ガンガーに行こう」という応急案に何とか妥結した。そしてラージャのオートリクシャーがブーンとエンジン音を上げた。その音は「チェッ、言う事を理解しねぇジャパーニーだぜ」と言っているようだった。

  ガタガタとあちこちに身体をぶつけながら僕はラージャの運転に揺られていた。道路沿いの空き地に、髪の毛がパサパサに乾燥した裸の少女が、お母さんの炊事をじっと見ている風景が眼に入った。そこは家がない空き地だったが、確かに彼女等の家はある様子だった。やがて車やバイクが激しく行き交う道に出る。線路の高架橋の下、幾人かの痩せこけた爺さんが座って太陽を避けていた。一人の少年が何事か話し掛けている。そこは家がない高架橋の下だったが、確かに彼等の寝床はある様子だった。無い中の有る、が街に溢れ人々が生活していた。そしてその無い中の有る、は僕の胸を異様に締め付け、漠然と不安で、心細くも感じさせていた。その為か、次第に僕は沈鬱な表情をしていた。ヴァーラナッスィーのカラッとした晴天の下で人々の営みを見ていると、僕の気分は反比例してシットリ湿り気を含み、重くなっていった。こういう気分というのは僕の旅のどこかには必ずある。こういう時、僕はムッツリ黙りこみ、ともすると怒ったように気分を腹の下の方に静ませて当分浮上してこない。いつも人に理解されない部分だが、僕にとってこの気分の時というのは自分が壊れていくような時なんだ。僕は昔から思い込みが強く、自分家の庭に一人で、おもちゃ片手に一日中自分だけの物語を作って、その中で遊ぶ事が好きだった。人から自分を守る唯一の防衛手段にもなっていた。だけど、次から次へと迫り来る現実の前に、たかをくくっていた自分の思い込みの世界は崩壊せざるを得ない。テレビでよく見た光景も、こうして実際に知る事になると、全く為す術が無い。どうとらえたらいいものかも解らない。街の音は、普段偉そうに話している僕が、壊れる音だった。

  途中、ラージャはガソリンスタンドで給油をした。そして給油をしてもらっている間、ラージャは僕に「背中を触ってみろ」と言った。僕が触ると「どうだ、汗が沢山にじんでるだろう?オートリクシャーの運転も大変なんだぜ」とストロングでいなきゃいけない理由を教えてくれた。やがて給油が終わり、またストロングな音を立てて僕等はガンガーへ向かった。ラージャは運転中に何度か赤いツバを吐き出した。ストロングなラージャの事だ、それは別に血痰というような深刻な事ではないだろう。にしても、ガムなのか何なのか、その赤い塗料をいつの間に噛んでいたのか、さっぱり見当が付かなかった。また、街の人もその赤いツバを吐き出していて、道端にその赤い跡をよく発見した。
  道を歩く子供達は、僕という人種が珍しいようだった。じっと透き通るような瞳で僕を見詰めてくる。丸裸の好奇心が僕を真っ直ぐに見詰めてくる。この瞳は驚くほど綺麗なものだった。喉の奥で息を塞がれるような美しさだった。女の子が僕を見て「ハーイ」と言った。僕が何国人かは解らないけど「ハーイ」と言えば何国人でも通じるだろうから、恐る恐る試してみた雰囲気だった。はにかんだその挨拶に僕も手を振って「ハーイ」と応えた。僕にしてはあり得ないくらい優しい表情をしていたと自分でも思うが、これは子供達のお陰だろう。女の子は「キャハッ」と笑っていた。その仕草がたまらなく可愛らしい、綺麗だ。こんな綺麗な子供達を今まで見た事がない。これはインドに来て初めて感じた事だった。子供達がとっても綺麗な表情を見せてくれる。だから、電車で一緒になった巨漢夫婦のように物腰の柔らかな大人になれるのかなぁ…んっ?巨漢?この子等も、あんな巨漢になるのか?で、今、目の前で運転しているやかましい男ラージャも昔はこんな真っ直ぐな瞳の子供だったのか?まあ、そうだろうなぁ。成長の不思議を感じた。ともあれ「はっ」と息を飲む子供達の綺麗な眼差しに、僕の成長過程の汚れは痛感せざるを得なかった。綺麗な原石の前で、薄汚い自分の垢は目立ってしまう。子供達の眼差しもまた僕を壊すものだった。「ハーイ」と呼び掛けられ「ハーイ」と応えるやりとりは、僕を壊す音だった。

  やがて、オートリクシャーは人が二人並んで歩いて目一杯の細い路地に入る。ラージャの巧みな運転により、牛を避け、人を避け、迷路のように細かく入り乱れたガート付近の街角に辿り着いた。そこでリクシャーを降り、徒歩でガンガーへ向かった。矢張り、土地に明るい人と歩けるのは正解だった。こんな所に一人で迷い込んだなら生きて出れる気がしない。ラージャはノッシノッシと先立って歩いていく。ガンガーはもう目の前の筈だが、姿はまだない。


以下、余談、
  随分、文字数を重ねて来ましたが、この話は次回やっと目指したガンガーに辿り着きます。自分でも思ったより原稿を重ねてしまうほど書くべき事が多くなっています。読んでくれている方には、なかなか進まない話だなぁと思われているかもしれませんが、何卒ご容赦願いたい。確認しておきますと、この回の時点でこの旅は三日目の昼間の時間軸にいます。時期は8/26にいます。初日の24日に成田発、インドに着き、25日にデリーを観光し、寝台車に乗り、26日の朝、ヴァーラナッスィーに着いて、今現在、三日目その昼間にいます。これからもコツコツと書き上げていこうと思います。いつの間にか大仕事になってしまったこのインド旅行記、根気良く読んで頂けると嬉しいです。




インド旅行記・続三日目 2004/11/7
『ラージャ』

  ヴァーラナッスィーに着いたのは七時半。デリーとはうって変わって晴天。旅行の為に坊主のように短く刈り込んできた頭にはクラクラするような陽射しである。濡れたままだったスニーカーもみるみる乾いていく。先ずホテルに向かいチェックインや手続きを済ませて、部屋のベッドに「ほぅっ」と一息つく頃には午前九時を回っていただろう。寝台車の硬く寒いベッドでは何度か眼を醒ます浅い眠りだったから、枕に後頭部を沈ませると真っ直ぐ眠りに落下しそうになった。軽い仮眠を取るべきだと思った。が、喉が渇いている。僕はひっくり返りうつ伏せになったが、一旦枕に吸い付いた顔面はなかなか抜けてくれない。押し潰れた顔を枕に埋めたまま「…よっしぃ」と自分に言い聞かせ、両手を枕についてお尻を上げる(これを猫のポーズと呼ぶ)トムがジェリーの部屋の穴から頭を引っこ抜くように、僕は踏ん張って枕から頭を引っこ抜いた。シュポーンと音がした、気がした。

  ヨロヨロと歩いてホテルを出る。ミネラルウォーターが売っていそうな屋台を探すのだが、ホテルの前の通りには見渡す限り店らしきものが見えなかった。右も左も判らないから、旅の嗅覚に従い右に曲がった。ホテルの目の前ではリクシャーやオートリクシャー達が旅行客目当てにたむろしている。僕は日本人という見てくれだけで彼等から絶大な人気を得てしまう。街を真っ直ぐ歩こうにも、やれ「どこいくの?」やれ「ミスター」やれ「ハーイ」「ヘイ!」と塞がれて蛇行せざるを得ない。それはもうミリオンヒットの賑わいである。が、今僕はリクシャーに乗る距離は動かない。彼等の陽気で、また生活の掛かった誘いを、無用な拒否権を発動して気分悪くさせたくないし、僕も水を買いに出ただけで無用な体力は使いたくない気分である。僕は乗らないぜオーラを全面に出して歩き出した。運転手達は「ヘイ!」と一様に一言投げかけて来たが、僕が手を振って「乗らない」アピールをしたら、僕の気分を機敏に感じ取ったのか、しつこく連いて来る事はなかった。やれやれ静かに歩けるぞとやや肩の力を抜いたのに、一人、小さいのが得意気に僕の足跡を追って来た。

  小さいが体格のいい男は「Where are you going?」と盛んに話し掛けて来た。どうやらオートリクシャーの運転手だ。僕は「チッ、空気の読めない奴めっ」と思い、無言で景色を見て歩いた。「Where are you going?」結構しぶとい。僕はこういった面倒な場面で煙草を吸う事が多い。キャスターマイルドを取り出し一本くわえ火をつける仕草で大概の運転手は乗る気がねぇんだなと判断して去っていく。が、このやかましい奴はやかましいまま僕の右後方をマークしている。「Where are you going?」まだ言うか。僕は彼を見ないまま面倒臭そうに一言「Just walking」と答えた。が、それによって彼は話の糸口を見つけてしまった。「歩いている?なるほどね、歩くのは身体にいいぜ、俺もよくこの辺を歩くんだよな」糸口にスルスル話が途絶えなくなってしまった。僕はまた無言に戻って修行僧のように歩いていく。「Where are you come from?」と聞かれ、僕は少し強い語調で「ジャパーニー」と答えた。ジャパーニーとは日本人という発音だ。「Oh ジャパーニー、good!」やかましい小男ははしゃぎ始めてしまった。眠い僕にはもうアメージングで奇々怪々な会話についていく余力はない。そこで一計を思い付いた、煙草を上げれば「降参だ、この煙草を友好の印に僕から離れてくれないか」「あ、日本の煙草だ、珍しい。有難う」てな事になりはしないだろうかと思った。上手くいかないにしても煙草を吸えば、この止まらない口も少しの間は塞がれ静かにもなるだろうと考えた。そして僕はキャスターマイルドを差し出し「どうだ、お前も吸うか?」という仕草をした。
  しかし、思いの外、彼は素早く拒絶した。見ればガキ大将の雰囲気のあるジャイアンを小さくしたような男なのに。お前が吸わないなんて意外だ。煙草って言えば大体どの国だって不浄、不良の飲み物と見られている。それを吸う俺達はワルだ。ワルだぜオイラ。何だよ…お前、吸わないのか?彼の言い分は至って健康的な理由だった「俺は吸わないんだよ。何故ならストロングでいたいからさ、否、むしろストロングでいなきゃいけないんだ、わかるだろ?見ろよ、このマッスル。気持ちは嬉しいが、俺は煙草は吸わないんだ」両腕を曲げてポーズを取る小さいがたくましい男と、呆然と口を開けて見詰める僕。見詰め合うこと暫らく、また無言で歩き始めた。
  歩きながら僕は別の考えが浮かんでいた。デリーでホテルへの帰り道、オートリクシャーを拾う度、あらぬ方角へ連れて行かれそうになったり、値段交渉に時間が掛かったり、限られた時間に少しロスが多かったんじゃないか?今回の旅の醍醐味、目的は一重にここヴァーラナッスィーにある。現地に明るいのは矢張り現地の人である。観光地なんかではなく少しでもヴァーラナッスィーに生活する人々に近付きたいと思ったら、矢張り信頼のおけるオートリクシャーの運転手を一日雇い、一緒に彼等の生活に入れたらそれが一番いいんじゃないか。そう、限られた時間にはお互い仲良く歩ける現地の人が欲しい。
  小さくマッスルな男はいつの間にか僕の右前方に出て、僕を先導していた。
  頼みもしないのに、彼は僕の行く手を阻むリクシャーや牛を「テイッ!テイッ!」と追い払って、僕の歩きを止めないようにして先導していく。

小男 :「歩くのは分かったけど、どこに歩いていくつもりだよ?」
山口 :「水を買う。それだけだよ。後はホテルに戻る」
小男 :「水ならあっちだ。あの店にある」
山口 :「ヴァーラナッスィーは暑いな」
小男 :「どっから来た?」
山口 :「だからジャパーニーだって言ったろうよ」
小男 :「違うよ、どこからヴァーラナッスィーに入ったんだって聞いてんだよ」
山口 :「ああ。デリーから来た。…あっ!(野猿を発見、物珍し気に眺める)」
小男 :「…あぁ(珍しくも何ともない語調)」
山口 :「ね、へぇ(微笑む)」
小男 :「…テイッ!(野猿を威嚇、追い払う)」
山口 :「あ、何するんだよ」
小男 :「(合掌して僕の方を振り返り)…あれカミシャマ(神様の意味)」
山口 :「…逃げてった」
小男 :「あれは噛み付くから危ない」
山口 :「でも、あれカミシャマなんだろ?」
小男 :「…ここ、ここ。ここで水を買いなよ」
山口 :「あぁ、そうだ。えぇっと…ミ、ミニラル、ワータル、ディジヘー(店主にミネラルウォーター下さいと言う)」
店主 :「…?」
山口 :「あれ、通じてないかな。えぇっとぉ、ミーニラルゥ…」
小男 :「違うよ、そんなんじゃなくて、ミジュ。ミジュって言えば水が出てくるよ」
山口 :「それ思いっ切り日本語やん」
小男 :「(店主に向かって)おい、ミジュ!ミジュだよ、早く出せよ」
店主 :「…?」
小男 :「(勝手に店の中に入って冷蔵庫をあさった揚句)…ほらミジュ」
山口 :「いや…(完全にお前が持って来てお店の人は訳が分かってないやん、と思いながら)キトナーヘ?(お幾ら万円ですか?)」
小男 :「(店主に)お幾ら万円?」
店主 :「…8ルピース…?」
小男 :「8ルピーだって」

  ミジュだのカミシャマだの、何故その言葉を覚える必要があったんだと思うような日本語を彼は知っていた。何が起きたのか未だに分かっていない店主から無事にミジュを買うと、来た道を辿ってホテルへ戻った。その道すがら、この機敏で小さく、マッスルだけど少しイタズラめいた嘘をつく男を好きになった。歩きながら彼は学生でベナレスヒンズー大学に通っているらしい事が分かった。オートリクシャーはパートタイムの仕事だと、これまたどこまで本当なのやら。兎に角、僕はヴァーラナッスィーの観光案内をこの憎めない小男にお願いしようと決めた。「一日案内してくれるとしたら幾ら取る?」と聞いたら「200ルピーだな」と答えた。デリーでの物価を考えたら安いと思った。「じゃあ、俺はこれからホテルに戻って仮眠を取る。その後出掛けるから乗っけてってよ」というと「何時?昼飯はどうする?」と約束を求めてきた。僕は12時に出掛けると約束すると、彼は門の前で待ってるよと言った。ホテルの前に着くと彼は自分の愛車を僕に紹介した。彼はフロントガラスを指差して得意気に「見ろよ、俺のオートリクシャーはブランド物だぜ」と言う。見ると大きくSONYとプリントされている。「お前の国のやつだ、確かな車だぞ」僕はこういう日本に少し気恥ずかしさを持っている。「ははは、ソニーかぁ…いいヤツやん」何とも言えない褒め言葉を使ってしまった。それにしても眠い。一緒に回ってくれる相手が出来た今、僕は一刻も早く仮眠を取って観光に備えるべきだった。「じゃぁ、12時に」とお互い念を押した後、

山口 :「メラ ナーム ヤマグチ へー(俺の名前はヤマグチだ)」
小男 :「ヤマグチ」
山口 :「アップカ スブ ナーム?(お前の名前は?)」
小男 :「ラージャ。メラ ナーム ラージャ へー(俺の名前はラージャだ)」
山口 :「ラージャ」

彼はラージャという名前だった。


インド旅行記・二日目の夜から三日目の朝まで 2004/11/5
『夜行列車』

  ニューデリー駅から夜行列車に乗りベナレスへ向かう。インドでベナレスという地名は「ヴァーラナッスィー」と発音しているように聞こえたから、僕はヴァーラナッスィーと発音する事にした。僕の日記帳によると18時20分に列車は出発している。でも、切符が今は手元にないので果たして定刻通りに出発したかどうかは定かではない。ただ、大幅に遅れたという記憶がないので、噂ほどインド国鉄列車は遅れないという事だ。ここから翌朝七時の終点ヴァーラナッスィー駅まで約25時間の寝台列車の旅である。それにしても電車の加速がなさ過ぎる。ともすると線路沿いを歩く人に追い抜かれている。こんなんで朝までに着くのだろうか?それとも、こんなんで走ると朝、ヴァーラナッスィーに着くようになっているのだろうか?線路沿いは車内から投げ捨てられたゴミが沢山転がっている。列車はガタンゴトンなんて音ではなく、至って静かに、それはきしむように音を立てて着実に僕をガンジス河へと運んでいる。

さて、その寝台、僕は確か3Aという等級であった。この3AのAというのはエアーコンディションの事らしい。が、天井を見ると扇風機がぶら下がっているだけで空調が働いていそうな気配は感じられない。したたかに雨に濡れている身体を乾かしたかったが乾きそうもない、覚悟の上だ仕方がない。寝台のベッドは三段になっており、寝る時は三段ベッドだが、起きている間の状態は、一番上のベッドには三人分の毛布とシーツが置かれ、二番目になる真ん中のベッドは倒してスペースを空ける、そして一番下のベッドに三人が座るという作りになっている。僕が指定されたベッドは真ん中のベッド、今は倒されて背もたれになっている。僕は一番下のベッドに座り、ズブ濡れになったスニーカーを脱いで靴下を履き替えた。日中、雨中のデリーで格闘して歩いた疲れもあって靴下を替えただけで結構な幸福を感じた。無事に電車にも間に合ったし、安堵感に顔が少し緩んだ。

僕が席につくのに少し遅れて、迎い側に巨漢夫婦が座った。見たところベジタリアンの雰囲気は一つも漂っていない。濃い紅色のサリーを着た奥さんがノシノシやってきてドッコイショと座る。そこへ旦那さんが優しく気を遣っているといった夫婦の構造になっていた。二人ともおしゃべりは少なく静かな紳士淑女夫婦のようで、僕は内心ほっとした。
こうした寝台列車の旅は相席の気遣いで大きく印象を変える。以前、初めて中国を列車で旅行した時、けたたましい男達と相席になって部屋に痰を吐かれるはラジオのボリュームがデカイはで辟易した21時間を過ごした事がある。ただでさえ人見知りのある僕には軽いトラウマになっていた。が、この夫婦はとても上品で静かな方々で、交わす微笑みも余裕がある。旦那さんが余裕を持って奥さんに投げかける微笑みというのはどの国の人でも憧れる。旦那さんがお茶を出す、奥さんが「今は要らないわ」という仕草をする、旦那さんは微笑んでお茶を下げる。巨漢夫婦のやりとりに、体格以外はこんな夫婦を作りたいと思った。僕は今なお、そういったジェントル精神が身に着かない。ただこの時ばかりは僕もその上品さに行儀を正し、微笑みで応えていた。…と、途端、すると、途端、何とも言えぬ重低音が奥様の方から飛んできた。
「ンガェェ…ップス」その音源は何とも言えず奥様のお口元からのゲップだった。それは夏の夜に牛蛙が「暑いな今日も」と鳴いた声に酷似していた。僕は呆気に取られたが、奥様に動揺はなかった。その後ヴァーラナッスィーの駅まで、幾数発かのゲップが奥様のお口元から放たれたが、奥様にも旦那様にも表情が変わる事なく上品な微笑みは崩れなかった。僕の憧れは、体格とゲップ以外はこんな夫婦を作りたいに書き換えられた。ではあるが、僕がインドにいた短い時間に、何となく感じた事がこのゲップであった。女性も男性も思いっ切り大きなゲップをされる方が多い。日本のように恥ずかしく押し隠してするゲップは見なかった。公明正大なゲップが多い。僕が見た範囲で決め付ける事はできないがインドのゲップはそういったものかもしれない。
僕は巨漢夫婦の肉厚に圧倒され、おまけに隣に座ってきた小太りの爺さんに更に押しやられ、狭っ苦しくて仕方なかった。小太りの爺さんが巨漢夫婦に話し掛けたら、話が盛り上がっているようで、ヒンズー語が喋れない僕は当然のようにおいていかれた。でも、巨漢と小太りの話の輪の中にはいる訳で、これは辛かった。ついつい各々の名前を聞くタイミングを逸してしまい、誠に失礼ではありますが、彼等の事を心中ずっと巨漢夫婦と爺さんと呼んでいた。僕は足を存分に伸ばしたかったのだが、巨漢夫婦と小太り爺さんに囲まれて膝を広げる事さえ許されない有様である。

  電車に乗って暫らく、車内に足りないものに気付いた。電車は何度か駅らしき人だかりに足を止めるのだが、果たしてそこが駅なのかどうかが分からない。気が付いたら、幾つ駅を越したのかも把握していない。何故だろう?って考えてみた、「あ!車内放送がない」という事に気が付いた。駅には止まるが、ここがどんな駅か教えてくれないのだ。どうりで静かな筈だ、一切の車内放送がない。ばかりか、駅も駅で「発車します」だの「白線までお下がり下さい」だの「プルルルルル〜」がない。至って静かに電車を送り迎えしている。これには不安を覚えざるを得なかった。今乗っている行きの電車はヴァーラナッスィー駅が終点だから構わないが、帰りはアーグラーで途中下車しなくちゃならない。どうやって駅を見つけるかなぁという不安がある。そこで、駅に止まる度に駅名の書いてある看板に目を凝らしてみた。しかし、ヒンズー語。英語で書いてもあったが、日本のようにそこらじゅうに○○駅と書いてある訳でもなく、一駅に一枚のワンチャンス。これは難しい乗り物だなぁと思った。これがもし夜中に着く駅だったら、みんな眠っているし誰にも聞きようがない、夜の暗がりで駅名も見えにくい。これはちょっと不親切だなぁ。車掌さんも来ない、一度切符を確かめに来た人がいただけだ。

  電車内は、みんなが各々で自分のスペースを作り自分の時間を作り始めた。僕はまだ巨漢と小太りの中、縮こまっている。何度もチャイを売る少年が通った。「チャーイ、チャーイ」念仏に似た抑揚のなさで誰にという訳でもなく誰かの為に、声を掛けて歩いている。珈琲を売る少年もそう「カフィ、カフィ」と唱えている。「下さい」と言えば大きなポットを股に挟んで素焼きのコップについでくれる。他にはスナックを売って歩く人もいた。「チャーイ、チャーイ」「カフィ、カフィ」のリズムにうとうとしながら、僕は日記帳にデリーでの出来事を噛み砕いて書き込んでいた。
何時間が経って、あと何時間で着くんだろう。途中夕食の注文を取られ、また暫らくすると夕食が来た。僕はてっきり切符代に含まれているサービスだと思っていたが、食い終わると料金をしっかり徴収された。街での物価を考えると高い。巨漢夫婦が持参の弁当を食べていた理由が分かった。ただ僕は、昼間、僕には辛すぎるカレーで腹を満たしていなかったから、この夕食はとっても美味しいものだった。目一杯喰った。そしてまた自分の記憶力と競争でもしているかのように無心に日記帳に筆を走らせた。
また知らないうちに暫らくの時間が過ぎた。ふと目を上げると、自分がうとうとしている事に気付いた。明日は早朝にヴァーラナッスィーに着いて、ガンジスを見に行く。その体力を予測すると、何とかこの狭っ苦しい電車で熟睡して身体を休めなくちゃいけない。とは言うものの、僕は人様の家の枕で寝つきが悪い事に悩まされた人生を送って来ている。巨漢に囲まれて考える事がみみっちいなぁ。でも、さすがに疲れたのだろう、日記帳に目を落としてもフワフワして文字が浮かんでは消えるようになった。寝るなら今だ、今なら気を失うように眠れる。という時に、そんな時ほど巨漢夫婦も爺さんも寝てくれない。巨漢奥様は旦那さんの気遣いで向かいの一番下のベッドに眠っているのだが、男陣に睡魔は訪れてない模様。僕は何度も「早く寝ようよ」と願った、勿論心の中で。「チャーイ、チャーイ」「カフィ、カフィ」「チャーイ、チャーイ」「カフィ、カフィ」…。
やがてみんながガサゴソ寝床を作り始め、僕も足を伸ばした。車両内の電気がパラパラと消灯していく。僕は小声で一日の感想をレコーダーに録音した、が、寝惚けていて長い割りには何も要点を得なかった。そのままヘッドフォーンを耳に差し込み、音楽と共に眠った。このインドにいる気分に自分の曲がどんな馴染み方をするか聴きたかったから、自分の曲を聴いた。夜の地図が順番に書かれていく思いがした。「チャーイ、チャーイ」「カフィ、カフィ」は知らぬ間に聞こえなくなった。

一体、何時に眠ったのか。午前五時、眼を醒ますと僕は凍えていた。どこからともなくエアーコンディションは効き過ぎて、インドの人以外のバックパッカー達を震え起こしているようだった。凍えながら向かいの巨漢夫婦を見るとスコヤカに眠っていらっしゃる。奥様に至っては、サリーの間からお腹がお出になられている。そのたくましい肉襦袢を着ていれば寒くないんだろうさ。僕は毛布に絡まって狭いベッドを右往左往して身体を温める努力をした。やがて一時間もすると巨漢夫婦も小太り爺さんも眼を醒まし、何事かヒンズー語で言葉を交わしていたが、僕が口にしたい「おい、ちょっと冷房効きすぎじゃなかった?寒くって何回か目を覚ましちゃったよぅ」という言葉ではない事は、表情の穏やかさで分かる。巨漢旦那さんは髪を梳いていた。その潤いのない太く硬そうな髪の毛は、あっという間に一糸も乱れず昨夜と同じ髪型になった。奥様が重低音でゲップを一発鳴らす。明けのカラスより早起きのゲップだろう。全ての穏やかな朝の光景の中、その穏やかさが僕の身体に充満しないのは寒さのせいだった。
電車が止まった。それと同時にみんながゾロゾロと電車から降り始める。あぁ、ここがヴァーラナッスィーかぁ。時計を見ると七時半。やっと着いたね、なんて顔付きで振り返ると、もう巨漢夫婦や小太り爺さんの姿はなかった。さようならの一言も言えなかったし、25時間分の情緒もヘッタクレもなく僕も慌ててスニーカーを履いた。まだ濡れている。静かだった電車内からは想像できないほどプラットホームには人がやかましく降りていた。また、デリーからは想像つかないほどの晴天。カラッと硬く乾いたプラットホーム。ヴァーラナッスィーに僕は記念すべき右足を降ろした。ガンガーはどっちだ?

インド旅行記・続二日目 2004/11/1
『コンノートプレイス』

  ホテルを出た。デリー観光を敢行だ。言いようのない開放感が胸を突いて僕はニヤケる。何が面白そうって、何を見ても面白そうだし、見るべきものが360度に転がっている、行く先はどこでも良かった。水溜りをピョンピョン越えてデコボコのホテル前の小道を歩いた。すると、ほら、歩き出したすぐそこに白い野良牛の群れを発見。僕の泊まっていたホテルと隣のビルの隙間で雨宿りしている。こいつ等も特に行き先も持たず、誰に飼われる事もなく、日がな一日この街をウロウロ雨宿りを探し過ごすんだろうか。タマラナイ開放感。記念すべき初写真はその野良牛を撮った。

  小降りだけど持ってきたんだからという事で傘を差した。デコボコの小道には水溜りが多い。スニーカーは一足しか持って来てないんだ。濡らしたくないのだが、街を見たいから僕の眼は上へ下へ大忙しになる。人気の少ない小道に信号がほとんどない。ローターリーが要所にあり、そこから放射状に商店街、ホテル街へと広がっている。僕の旅先での嗅覚は音痴ではないと自分で信じている。地図を見ずとも臭いで、あっちがきっと大通りだろうと思って歩けば矢張り大通りにあたる。まあ、偶然と言われれば偶然、しかし、僕はこの時、さすがまだまだ俺の旅感覚は衰えておらんな、と自負してその大通りを眺めた。

  が、この大通り。デコボコの範囲を越してガタゴトにクレーターだらけである。しかも、その一つ一つが巨大で水が溜まっている。とてもとても夕暮れに伸びる自分の影を見て「あ、俺って足長〜い」と満足しているような僕に飛び越せるものではない。僕は歩きたい気分だったけど断念せざるを得なかった。乗り物に乗ってみよう!のコーナー!旅先では心の中で自分のテンションを叫ぶシステムになっている。ここで説明、インドにはリクシャーなる人力車がある。浅草にあるような人力車を自転車で引いている乗り物と考えて下さい。それともう一つ、自転車ではなくオートバイで引いていくオートリクシャーがある。これはチョロQを大きくして後ろに二人乗せれるようにして、またバリバリうるさく走る乗り物だと想像して頂けると調度良い。で、僕はオートリクシャーに乗る事とした。行き先はコンノートプレイスというマーケット街。ただ、僕はまだリクシャーの相場を知らない。一応各車メーターが付いているが、そんなものをおとなしく使ってくれるだろうなんて頭っから信じていない。中国を旅行して身に付けた危機管理能力だ。歩道らしき部分を歩いていると「Where are you going?」と邪魔なくらいにリクシャーの運転手から声を掛けられる。その中から一番ボラなそうな顔付きの運転手さんを探し僕は声を掛けた「コンノートプレイスまで行きたいんだ、どうだい?知ってるかい?じゃぁ幾らくらいで行けそうだい?」勿論つたない英語を使っての会話だったが、僕の心の中での意訳はこんな調子だった。運転手さんはいたって表情を崩さず「60ルピー」と答えた。僕は笑わない奴だなぁ、リアクション芸人にはなれないタイプの運転手だなと思った。だが、ここでは市場調査である、ケチるのではなく、なるべく正規の値段で旅行したい。大した信念ではないけど「あの日本人の鼻タレ、ホント馬鹿だぜ、あんなに金落としていきやがった」と思われたくない。
  僕は「いやぁそれはガメツイぜ兄弟。10ルピーで乗せてってくれやしないかい?」(心の意訳)と思い切って吹っ掛けてみた。すると運転手は無言で首を振る。僕は「チェッ、随分しけてるじゃないか兄弟、じゃぁ、20だ。20ルピーじゃなきゃ乗らないぜ」(以後、僕の言葉は全て心の意訳)その運転手は初めて苦笑いを浮かべ、しかし無言で去っていった。
  見送る僕、「何だよ、笑えるんじゃねぇか」これは日本語で呟いた。何度かこんな吹っ掛け合いをしたお陰で少し物価が見えた。30ルピーで行けたらきっと妥当な値段。50ルピーで行けたら外国人税を取られた値段。という風に僕なりの物価を固定した。そして、本当に乗る為にリクシャーを拾い、値段交渉の末30ルピーでコンノートプレイスに向かった。

  インドの交通事情は予想を遥かに上回った。水溜りでよく分からないにしても、二車線、多くて三車線の道に、バイク、車、バス、リクシャー、オートリクシャー達が五、六車線を織り成して、砂時計の砂が我先に落ちようとして詰まっているような喧騒になっている。そして誰もがクラクションを鳴らし続け、30cmの隙間も見逃さず前に出る。ここで控えめな日本人の僕が車を運転したなら一日掛かっても目的地に辿り着く事はないだろう。またこのオートリクシャーに乗っている間、エンジンから上がってくる排気ガスを吸い嗅ぎ続けた、北京の一元タクシーに乗っていた頃以来の臭いで懐かしい。鼻の中、黒くなるぞぉぅ。

  さて、コンノートプレイス。円形に広がった商店街と言いましょうか、各コーナーにマーケットと呼ばれる屋台街がある。これといって欲しいものはないから、兎に角街の雰囲気を楽しんだ。何を作っているのか屋台の煙にカレー臭が混じっている。人は歩くし、野良犬も歩く。人は寝そべるし、野良犬も寝そべっている。雨は一層強くなってきた。

  ふと本屋の前を通ると雑多に積まれたインド雑誌の中にビル・クリントンの「My life」を発見した。前大統領の不適切な関係はインドにまで聞こえているのかぁ。そして、暫らく歩くと、より暗くて古そうなお店を見つけたのでそこに入ってみた。カレンダーやポスター、ポストカードを売っている。大体がシヴァ神などインド神話の神々のものである。そして細く皺枯れたお婆さんと若い娘さん、いや孫かな、まあそれくらいの年頃の女性二人で切り盛りをしている様子だった。
  さて、ここで僕は僕のラジオの番組Men's Breathのネタとして手持ちのポケットレコーダーを回してヒンズー語で買い物をしてみよう!のコーナー!を録音してみようと思った。店内には人が少なく、ラジオ用に実況をしながらお婆さんに近付いていく、以下はその時の会話。

山口 :「え〜ヒンズー語で買い物をしてみようのコーナーです。2005年シヴァ神のカレンダーをヒンズー語で買ってみようと思います」(山口、若い方の店員さんに近付く。が、若い店員さんポケットレコーダーに気付く)
山口 :「あ、店員さん逃げちゃった」(山口、仕方なくお歳をめされている方の店員さんに近付き)
山口 :「キトナーヘ?…(トーンアップ)キトナーヘ?」(お幾ら万円ですか?とカレンダーを指差して、お婆さんに聞く)
婆さん:「ファイブ・ルピース」
山口 :「ファイブ・ルピース?…(トーンダウン)ファイブ・ルピース」
婆さん:「…」(頷き)
山口 :「…」(もてあまし)
山口 :「…英語で返されちゃった」

カレンダーは買えずに店を出た。

  さて、コンノートプレイス。歩いてみるとマクドナルドや31アイスクリーム、SUBWAYと外資系飲食店が矢張り浮いて見える。店外からのぞくとハンバーガーが80ルピーくらいだったかな、高い。人通りでごった返した商店街の中、こういう店には客が少ない。いても外国人。そして門番に守られている。奇妙なオアシスを作っている。

  僕はお腹が空いたので食事を取る事にした。が、ここはインド、カレーを取る事にしたと言っても言い過ぎる事はないくらいカレーの店しか見当たらない。ベジタリアンのカレー店に入った。今更だけど僕は辛いものに弱い。ここで食べたカレーは僕にとって煮え湯だった。丸い小さな皿に何種類かのカレーが出てくる定食なんだけど、どれも辛くて逃げ場がない。ヨーグルトが付いてくるのだけど、これも甘くなく酸っぱくもなく、味の判断がつかず、完食を断念。腹は満たせず店を出た。辛さで汗をかき、疲れ切っている僕の目の前に、路上の本屋。その路上に並べられた本の中にまたしてもビル・クリントンの「My life」。全く不適切なタイミングにまた現れやがって。列車の時間までまだ時間がある。もう少し歩いた。

  ヒンズー語で買い物をしてみようの!コーナーを今度は露店の楽器屋さんでやった。今度は御陽気なおじさんとお節介な通行人のお陰で大変に盛り上がった録音になった。これはMen's Breathの方でオンエアーされました。
  また、暫らくほっつき歩くと、今度は大蛇を首に巻いた男が道に出現。普段、テレビでアイドル達が大蛇を見てキャーキャー逃げ回るのを見て、僕は心中小馬鹿にしていたのですが、実際目の当たりにするとさすがに一歩後退します。大蛇を首に巻いた男は道端に店を開き、幾つかの籠に笛を吹いて小さい蛇を呼び出す有名なあの芸をし始めました。僕とその周りにいた観光客はカメラを持ち出し写真を撮ろうとしたのですが、そこは商売、笛を止め、気持ち良さそうに踊っていた蛇を、籠の蓋で無理矢理押し戻し。お金が必要ですとアピールした。すると西洋人ファミリーが名乗りを上げて、男に呼ばれて近付いていった。すると男は自分の首に巻いていた3メートル近くある大蛇を、西洋人ファミリーのお父さんの首に巻き始めるではないか。お父さんは顔を真っ赤にして笑っているが、結構引きつっている。僕も顔が引きつる。

  物事の本質は、実際の体験で初めて分かる。僕の父親は極度に蛇嫌いで、ドライブをしてたら道に蛇が出てきたという理由だけで、その道を通れず車を引き返して来た経験を持つ。僕は父親を笑ってた。テレビで大蛇を首に巻かれて縮み上がるタレント達、そしてそれを見て「チャンネルを変えろ」と怒鳴る父親。あれだけ小馬鹿にしていた筈の僕が、あれほど俺は平気と思ってきた自分が、実際この光景を前にして、絶対この大蛇を巻きたくないと思った。触りたくないとさえ思った。物事の自分の本質は、実際の体験で得られる。

  コンノートプレイスには地下のマーケット街もあって広かったが、僕は天井が低いという事に妙な威圧と恐怖を感じる。少し回ると、テレビゲームの店が目に付く。どれも、何となく日本を経由して独自のゲームを作っているような雰囲気がある。面白いのだが、雨による湿気と天井の低さに閉口してそそくさと地上へ上がった。地下へ通じる入り口には金属探知機のようなものがあって警備員もいるのだけれど全く警備していない。みんな探知機の隣を素通りしていた、一体どんな意味があるんだろうと思いながら、外に出るとドシャ降り。もう、ホテルに戻る約束の時間が近付いている。

  だけど、こんな時に限って、リクシャーが捕まらない。捕まってもホテルのある街を知らない、変な旅行社に連れて行って別のツアーに連れ込んでひと稼ぎしようと企んむ奴もいるという風で、僕は服もスニーカーもズブ濡れにして水溜りの中を格闘し、ホテルに何とか辿り着いたのは約束の時間、ギリギリだった。

  ホテルのフロントで靴下を脱ぎ、寒さに打ち震えていると、あの大男が現れたのは30分遅れだった。相変わらずノソノソしてデカイ。ズブ濡れの僕を見てクスクスと紳士のように笑って「さあ、時間がないので行きましょう」そんな憎めない大男と一緒にニューデリー駅に向かい、「じゃあまた、最終日に、ここで」で別れ。僕は寝台車に揺られ、デリーを出て、聖地ベナレスへ向かった。




インド旅行記 2004/9/21
二日目・デリー

『起床、ホテル、右手?左手?』

  インドで初めて眠る。夜中に何度も起きた。そしてその回数分の夢を見た。一つ一つをはっきり覚えてはいないが、一つ一つには脈絡のない芸能人が次々と出てきた。今でも覚えているのは一つだけ、笑福亭鶴瓶が出てきた夢、内容は不明。しかし、さすがに眼を醒ました時は「眠らせてくれや、インドまで来て何でツルベやねん…」って独り言を吐き出さずにはいられなかった。別に出てくる芸能人が大好きな訳でもないし、日本の事を考えていた訳でもないのに…インドに来た途端、立て続けに夢に見る。日本では無かったこの現象は、僕の身体が環境の変化、情報の多さに対応し切れず混乱している証拠なのだろうか。こんな調子で、初日の朝を迎えた。

  一番先に眼を醒ましたのは聴覚だった。窓の外ではトンカントンカン何かを修理する音が聞こえる。そしてバイクが行き交うモーターの音。カーテンの隙間から入ってくる光は明るい、晴れを感じさせる。あぁ、日常かぁ、と思ってゆっくり目蓋を開いたりまた閉じたりしていると、聞き慣れない言語が大きな声で会話をしている、つまりヒンズー語。うっすら開けた視界にホテルの天井が映る、大きな扇風機が天井に釣り下がっている。眼を醒ましてから、現状を把握するまで、まどろむ時間が過ぎた、ここはインドです。僕はまず洗面所に入った。洋式の便器と、シャワーと洗面台。何の変哲もないホテルらしい風景だが、便器の脇のトイレットペーパーの下に一つ不思議を見つけた。水道の蛇口が出ている。そして、その蛇口の隣に手桶が掛かっている。

  聞くと見るとの違いは大きい、インドでは右手で食事をし、左手でお尻を拭くと聞いてはいたが、聞いてはいたんだ。でも、なるほどぉ、紙を使わずこれでお尻を洗えという事なのかぁ。納得せざるを得ない衝撃が寝惚けた頭と朝の洗面所に走った。
  見惚れる事しばらく。さてと、右利きの僕が、実際に慣れない左手でお尻を洗えるものかどうか迷った。左手で蛇口をひねり、左手に手桶を持って、水を汲む。そのまま左手でお尻にバシャバシャと水を掛け、左手で…、左手で…、どこまで右手を使っては駄目なんだろう?いやいや、初日の朝っぱらからこんな大きな謎に挑むべきなのか?トイレットペーパーは完備されているのだから、もう少しインドに馴染んでからでも遅くないんじゃないか?初日の朝に重大な生理的問題は解き得ない、

『朝焼けには 解き明かせない 頭傾げ、立ち向かってるんだ、拭けない俺は』(山口晶作「陽ハ出ズル」より替え歌)

僕はこの旅に一つ大きなテーマを持つ事になった。

  次に僕はシャワーをひねってみた。幸いお湯が出た。熱いとはいえないが、昨晩は真水しか出てこなかったから、それと比べれば上出来。シャワーの気が変わらないうちに風呂に入る事にした。すでに何となくインドの臭いというものを僕の鼻は嗅ぎ分けている、昨夜空港に着いて明らかに異国に来たと実感させたのも臭いからだったし、湿っぽいホテルに迷い込む街の臭いも眠りの中で嗅ぎ分けていた。どこに行ってもそうだが、僕は国の違い、風土の印象を臭いで身体に刻む事が多い。そんな臭いの中で入るシャワー。ホテルにはちゃんと完備されていたのだけど、一応シャンプーとボディーソープは日本から携帯して来ていたから、それを使う事にした。シャンプーや石鹸の香りが強烈なほど鼻につく。僕が日本で使っていたものってこんなに強烈な臭いがするのかと初めて実感した。

  日本の石鹸の臭いをプンプンとホテルに撒き散らし、着替え終えると一階に下りて朝食をとった。パンをかじっているとボーイさん達がチラチラと様子を伺っていた。ちょっと笑ってボーイさん同士で何か話していたりする。気になって仕方ない。やけに見られている気がする。僕の食べ方が何か可笑しいのか?右手でパンを持ち、右手で珈琲カップを持ち…、あれっ?俺今、左手で珈琲飲んだかも!…それかそれに笑ってるのか?『ププッ、あいつぅ、あの日本人、お尻を拭く手で珈琲飲んでるぜ』って事か?俺、今、左手で飲んだのか?それか?右手でものを食べる、飲むのも右手なのか?可笑しいのか?異文化の人に対しても右手を望むのか?…一体どこまで左手を使っては駄目なんだろう?何しろ言葉が解らないからどうしようもない。ボーイさん達は別に僕について話している訳じゃないのかもしれないが、兎に角僕も不慣れなジャパニーズ・フォーリナーである、ちょっとした事が気に掛かって仕方なかった。

『珈琲の にがい味も ひとおもいに、飲み干そうとしてる いけない左手で』(山口晶作「陽ハ出ズル」より替え歌、少々字余り)

  そんな空気の中で朝食をとっていると、昨夜空港に迎えに来てくれた大男がノシノシまた現れた。彼こそがデリーでの僕のライフラインである。彼は連日深夜まで僕みたいな旅行者を迎えたり送ったりしているらしく、少々くお疲れのご様子だった。僕は彼からこの旅で泊まる各地ホテルの予約証明書と汽車の切符を貰った。そして、午後五時にはニューデリー駅に行って汽車に乗らなきゃいけないから、それまでにはこのホテルに戻って来るように言われた。僕は了解して朝食を平らげ、やっとホテルを出たのは午前十一時頃だったか。門番の人に笑顔で送り出された街は、室内の予想に反してシトシト雨降りだった。

無題 2004/9/7
インド旅行記
  日本に無事に帰ってきました。色んなお気遣いを頂いて有り難く行って参りました。この旅に出る前の僕と、今ある僕は何かが変わった気がします。それが何なのか、旅の間につけた日記を元に、インドでの一日一日を出来るだけ細かく紐解いて、自分の記憶の箱にヒントを見つけてみようと思います。そしてこの旅行記がみなさんのインドという国に対する興味を満たし、インドという国に少しでも面白そうと思って頂ければ、みなさんのお気遣いに僕は少しでも応える事が出来るのかなと思います。それでは、アテンション プリーズ、旅の始まりです。

一日目

『出発ロビー・最後の…』

  午後五時頃の陽の傾きかけた成田を出発します。出国手続きを済まし、出発ゲートに入ってしまうと、もうそこは日本じゃない気がする。僕は早速「日本人の方ですか?」と何国人かに間違えられた。日本を旅行した外国の人にアンケートを取っているおばさんだろう、さすが成田の国際線出発ロビーの国際色は豊かだ。6年ぶりに国外に出る、バックパックの紐を固く縛り、否が応にも緊張感が気持ちを静かにさせる。一種の不安だなと思う。我が身一つを守るのにキュウキュウとしなきゃいけない感じ、無事を願う無意味さ、事件の一つ二つにも巻き込まれなくちゃ面白くも無いだろうにと思いながら、硬い表情の顔は無事を願っている。行くなら早く行こう気持ちに急かされながら、飛行機にトラブルが起きて出航できませんってな事態が起きないかと心のどっかで期待する。色んな逆説が混ざり合って、僕の気持ちは日本じゃないという事にウキウキし出す。

  出発ゲートの手前、最後のドトールがあった。そして僕はここで最後の珈琲を買う。この恵みを紙コップからこぼさないよう一歩一歩と神妙に進み、少し行くと灯りのある最後の喫煙所に着いた。ここから十時間以上は禁煙の悟りを開かなくてはならない。聖書か仏典にでも出てきそうな気持ちで、キリストでもブッタでもなく、山口は「最後の喫煙所」で最後の煙草を口にくわえる。

  ドイツ製のマッチ入れを取り出し、一本火をつける、この8日間で全てのマッチを使い切るだろうか、少し多めに持ってきたのだけれど、そんなに煙草を吸うだろうか。気持ちの落ち着かない手なもんだから、マッチは煙草に火をつけず、左手に持ったマッチ入れの中のマッチ全てに火をつけてしまう。ボオッという音と共に8日間掛けて使う予定だったマッチが、出発目前の一瞬の内に全て燃え上がってしまった。驚いて灰皿にマッチを捨てるが、ついでに珈琲のカップまで倒してしまう。あまりの動揺っぷりは僕の目の前に座っていた中国語を話すおじさん二人を沈黙させた。すわっ、不吉な予感、といつもなら危機感を募らせるのだが、そうはならなかった。自分のあまりの狼狽が、我ながら可笑しくて仕方なかった。あまりに滑稽だ。大きな国に行こうというのに、気持ちばっかり小さくなっている。僕はここでやっと本格的に旅に出る気になったと言ってよい。気持ちが大きくなった。僕は予備に持ってきたライターで最後の煙草に火をつけなおし、吸い終わる。最後の珈琲をフーフーし、飲み終わる。目指すインドの首都はデリー。今は雨期で水浸しになっているらしい。ズボンは今履いてるもの一つ、着替えはない。旅気分準備万端。ヨシャ、行くか。僕は足取り軽く飛行機に乗り込んだ。僕を乗せたキャセイ・パシフィックは先ず香港に向けて飛び立ち、雲の上という、どこでもドアを開いた。


『竜の巣、そして香港、一路デリー』

  飛行機に乗り込むと、そこはもう異国だった。りんごジュースが飲みたい、が「アポージュース」の「アポー」が気恥ずかしくて言えない。「はっと かふぃー ぷりーず」願いと違うものを頼んでみる。スチュワーデスさんは温かい笑顔で「今、温めているので出せません」らしき事を僕に教えてくれた。英語コンプレックス日本人の典型である僕は返す言葉を知らない、素直な笑顔で「OK せんきゅー」と無抵抗に引き下がる。中高生諸君、机上の英語は機上で生きない。書を捨て旅に出よう。と、僕は既に雲の下に小さく横たわる日本列島に思った。航路は西へと向かう、夕陽を追っ掛けて飛行機は飛んだが追い付けずに日は暮れた。
  機内で僕は旅のヒンズー語講座をヘッドフォンで聞きながら食事を取った。繰り返される発音とテキストを見詰めていると、意外に不親切な本を持ってきてしまった事に気が付いた。「ありがとう」とか「はじめまして」とか「さようなら」といった肝心要の挨拶が載ってないのだ。使えない辞書だぜ、と呆れて覚えるのをやめてしまう。現地の人に聞きながら覚えた方が断然早く話せるようになるだろう。小さな小窓の外は沖縄を越して、台湾に近付いている模様だ。そう言えば、僕の乗っている一つ前の便は台風の為に欠航になっていた、そろそろ台風に近いんじゃないか。眼を凝らして暗い雲を見てみると、筒状に立ち上がった黒い雲が何本かあった。僕は「ナウシカ」や「ラピュタ」を見て育ってきたから、こういう空を見ると空賊船が出てきやしないかという期待がどうしても起こる。その何本もある雲の柱の主のような太い雲の中で、何度も稲妻が光った。「あぁ、これが竜の巣だ」大興奮だった。竜の巣は香港に着く直前までの色んな空で見れた。
  僕の乗った飛行機は香港を経由する。飛行機が香港に着陸準備をする時、眼下に香港の街が広がった。僕の思っていた香港よりも香港は未来都市だった。高層ビルがSF映画のように乱立している。そして湾岸道路を車が走っている風景は日本と変わらないなぁと思ったけど、でも、あの車一台一台には香港の人が乗っている。地球はつくづく不思議な出来事だ。
  香港の空港に着いたが、飛行機が遅れて着いた為にカフェで珈琲一杯なんて優雅なトランジットタイムはなかった。急き立てられるように次の飛行機に乗り換えらされ「あぁパイナップル饅頭が食べたい」と思う間もなく、飛行機はデリーに向けて離陸した。
  デリーに向かう飛行機ではインドの人達の人口がグッと増した。そして機内食にラム肉のカレーが出た。東京から香港の便でも機内食が出ていたので、これが二回目の夕食。正直なところ、もう要らん、と思っていたが、意外に美味しいカレーだったから、結局完食した。香港から五時間を掛けて飛行機はデリーの上空に着いた。僕は時差を直さないまま時計を着けていたので、僕の腕時計は日本時間のままだ。見ると午前四時、現地インドの時間は深夜一時半だった。雨期に入っていると聞いていたが、存外晴れていて上空からデリーの街は見渡せる。ロウソクのような灯りが沢山頭を並べて、街中がまるでハロウィンをやっているようだ。パンプキンが乱雑に飾られ、その一つ一つにとても柔らかい灯りがついてる。これがインド、デリーに対する空からの第一印象だった。言葉に尽くせない興奮、初めて北京に降り立つ時、飛行機から見た街の風景に大はしゃぎした事を思い出した。とうとう着くぞ。
  着陸して入国審査を済ませるまで、今更「本当に入るぞ、いいのか?いいのか」と自問自答した。結局飛行機で来るというのはあっという間だ。半日前には自分の部屋にいたのに、全く勝手の分からない国にいる。

  話は少しそれるが、僕のこの旅は日本の旅行会社にツアーを組んでもらっている。初めてツアーというものに参加するが、僕はツアーってのは添乗員がついて来てイチイチ説明して回るイメージがあったが、そういうものじゃなかった。今回のツアーは各都市に入ったらまず最初にその地域の旅行社のボスと会い、ホテルにチェックイン、そこで「次の街への汽車は○時に出るから、○時に迎えに来る。だから、この時間には帰って来てね」と言われ「はい」と答えたら、あとはどうぞご勝手にというツアー。いつも僕の旅では、行った場所でまずホテル、切符を取るのに時間と苦労を費やした旅が多かったので、こういう時間の限られた旅で沢山見るには、眠る場所と汽車の切符だけはあらかじめ確保してあるのは大変便利だと思った。

『深夜、デリー空港』

  話はデリー空港に戻る。出口に向かう前に円をルピーに換える事にした。一万円が約3900ルピーになった。100ルピー札が39枚、これは充分な札束になってしまう。八日間で使い切れない気がした。お札にはガンジーが描かれている。失礼な話だが、何ルピーって言うよりも何ガンジーって言う方が楽しい気がした。500ルピーだけズボンのポケットに突っ込み、残りはパスポートと一緒にリュックの中にねじ込んで、改めて出口に向かった。深夜二時近い時間だけどこの空港はやっているんだと感心した。けど、同時に不安もあった。果たしてこんな遅くに旅行社の人は待っているんだろうか?僕はその人に会えないと今日の寝床もなくなってしまうし、明日汽車に乗る切符もない。空港出口には多くのデリーの旅行社の人達が僕のような旅行者を待っている。明らかに人種が違うっ、というのを初めて感じた。中国にいた時は服装とかでたまに日本人とバレる事はあったけど、ここでは明らかに僕は異国の異人種なんだ。みんなが食い入るように見てくる。僕も食い入るように見詰め返しながら、割りに分かり易く「Mr SHO YAMAGUCHI」の画用紙を持っている人を見つける事ができた。この男は背が高い。ノシノシ歩きながら日本語で話しかけてきた。僕はまずホッとした。そして、早速誰かとヒンズー語で接触したくて仕方なくなった。折りよく空港の売店が開いていたので、リュックから不親切だと言い捨てたヒンズー語の本を取り出した。不親切とはいえここではこの本が頼り、僕とインドの人が何故か話せてしまうという魅惑の呪文が書かれているのだ。売店の店員さんはターバンを巻いた若い男の人だった。僕はミネラルウォーターを指差し、店員さんに「イェ ディジエー(これ下さい)」と言ったみた。そうすると店員さんは何やら答えてくれた、が全く意味不明。相手の言っている事が分からない。結局「How much?」と聞く羽目になり20ルピーで水を買った。でも、自分の言う事が相手に通じる喜びだけでもたまらない、ニコニコがやめられないでいると店員さんは苦笑していた。

  空港の外は湿気が高く、ムッとむせ返る熱さだった。ホテルに連れて行ってくれるタクシーを待つまでに大分汗を掻いた。ライフルを持った警官がいる、ターバンを巻いた爺さんが誰を待つでもなく座っている。車で奥さんを迎えに来ているオジサンもいた。簡単に日常という言葉を口にするが、人によってその日常が非日常になり、まるで風景も変わって人の日常が至る所にあるんだと改めて感じた。やがてタクシーが来て、それに乗ってホテルに向かった。
道中車内のエアコンがとても効き過ぎて、寒いくらい。外が蒸して暑いのは分かるけど何故こんなに寒いくらいにエアコンを効かせるのだろう?疑問だった。窓の外に眼を移すと夜道に野良牛がダラダラと歩いている。派手に装飾したトラックが走っていたりする。日本で言うデコトラなんだろうか、ペンキを使った手書きで色んな事が書いてあるが、文字が読めない。
  ホテルの付近は土の道でデコボコ揺られた。そして小さいロータリーが幾つもある。信号をつけるよりインドの交通はロータリーの方がスムーズになるのだろうか?沢山の疑問を持ってホテルに着いた。これらの疑問は次の日から音を立てて崩れ去るのだが。何といっても深夜三時、過去最長時間を軽く上回るほど苦手な飛行機に乗った疲れもある。眠いのだが、「日本時間では朝六時半なのかぁ」とまだ日本時間を気にしている自分がいる。僕はホテルの部屋に案内され、やっと寝っ転がる事ができた。ホテルの人はエアコンをつけていったが、これまた寒いくらいに強過ぎる。一番弱いスーパーサイレンスというのに切り替えたけど、それでも若干寒い。まぁいいかとベットにはいって眠ろうとしたが、シーツが重いくらいに湿っている。これには耐え切れなかった。仕方ないからベットカバーの上で何も被らずに眠った。眠りに落ちながら、今、何時だか、何曜日だか、何日だか、何月だか、ここがどこだか、一つずつ静かに忘れて行った。僕はとうとうインドに紛れ込んだぞ、知ってる人は誰もいない。初日は暮れた。

ナヒーン 2004/8/21
 餞別の言葉、有難うございます。眼と脳をよくよく掃除して、空っぽにしてインドに行って参ります。
  ヒンズー語で否定形は『ナヒーン』と言うと今日勉強しました。「違う」とかの意味を持つそうです。可愛らしい言葉だなぁと思いました。「そうじゃナヒーン」「行きたいのはそこじゃナヒーンです」なんて日本語と合体させれば、これはいい響きだなぁと思うのですが現地では全く通じナヒーンでしょう。

  矢張り、ガンジス河は見てこようと思っています。早朝に神に祈りを捧げて沐浴をする河であり、亡くなった方の遺灰を流す河であると聞いています。輪廻転生がある河と聞いてます。さて、行って見なきゃ分からない事だらけなんですが、何となくは想像するんです。
「もう一度だけ、生まれ変わって、自分をやり直せるとしたらどうなるでしょう?」
ってな質問を自分にしてみます。そう、あの時のあの言葉をやり直せるとしたら、あの頃のあの人に対する僕の行動をやり直せるとしたら、どうなるでしょう?僕等はあの時に違う人生を選択する事が出来るでしょうか?

  僕はきっと変わらないものと思う訳です。僕達は個々の性格を持ち、今までを精一杯の想いで、どうしようもなくこの一筋の細い道を辿って来たと思うんです。だから、また、もう一回、同じ言葉を言い、同じ表情をして、同じ行動をするでしょう。そして今まで知り合えた人達ともう一回会い、同じように喜び、同じように怒り、同じように悲しむ、全く同じ生き方をもう一回するでしょう、そんな気がする。
  それを個性と言うんじゃないだろうか。みなさんもきっと生まれ変わっても、みなさんの各々の名前でやり直す以上、それぞれの選択を繰り返されるんじゃないでしょうか。こうして人間がグルグルと生まれては死に、輪廻転生しているのなら、それがもし存在するのならば、それを運命というんじゃないだろうかと思います。そしてその僕にある個性という運命の、ほんの端くれをガンジス河で見る事ができれば嬉しいなと思っています。まぁ、僕の勝手な思い込みでもあるでしょう。

  兎に角は楽しみです。大勢の人達が聞きなれない言葉で見慣れない生活をしている世界にお邪魔させて頂く訳ですから、失礼の無い範囲で最大限に楽しもうと思います。

  僕は今、みなさんと知り合う縁を得ました。幸せな事です。僕の今の今までは、全てが自分でやろうと思って出来た事ではなく、自分の力だけでは到底ここまで生きてはいられない存在です。ですが、全ては自分がやろうと思った事が発端になった事は確かです。僕が「聴いてよ」と投げかけて、みなさんの耳のお陰で僕はようやっと生きていられる、事実です。みなさんにもみなさんそれぞれの色を染めた事実が、みなさんの今の今までにあるんだろうなぁと思います。
  僕は大勢の人達の中で、大勢の眼があり、心があり、優しさ、生活、想い、想い、がある事をこの旅で身体に覚えさせて来たいと想っています。

証明 2004/8/12
 全くの僕の勝手な思い付きから、24日から31日までインドに旅行する事にした。それを今週の頭に決めた、海外に出る事がこんなに準備なしでもいいのかと思うほどの短い時間の決定だ。石橋を叩いて叩いて、石橋が割れて渡れない事が多いような慎重過ぎる性格を持った僕にしては珍しい。

  旅に出る時、僕は事前にあれこれ調べ上げる事をしないから、心の準備は要らないんだけど、何しろパスポートの期限は切れてるだの、ビザを取るだの、実務的な準備がキュンとギリギリだし沢山ある。意外な準備といえば、パスポートを再取得するのに、既に失効した以前のパスポートが要るなんて夢にも思わなかった。早速実家から送ってもらったパスポートを久し振りに見て結構愕然とした。このパスポートは十年前に中国に留学する為に作ったパスポートだ。留学中の4年間に大いに活躍したパスポートだ。僕は学生服を着ている。結構な驚きだった。

  そうかぁ、あの時は高校を卒業する時だったなぁ、あれからもう十年かぁ、普段はちっとも実感できないのになぁ…。なんて淡くも思い出していられない。何といっても、人相が思わしくない、否、悪い。よくこれで中国の税関が僕を通してくれたなぁと思える。きっとみんなもそんな人相の悪い証明写真のひとつはあるんだろうなぁ。

  不思議だよね、証明写真って言う割には、こんな自分にもある筈の明るさ優しさだけは写ってない、ちっとも証明してくれてないんだよね。そう考えるとアイドルって、俺みたいなこんな人相の悪い証明写真は撮らないんだろうな、滅茶苦茶得意なんだろうなぁ。俺もアイドルになれば良かったなぁ。

  証明写真の撮り方、ってポスターがパスポート申請所にあった。うら若い女の人が色んなパターンで写って、こんな写真では証明写真として認められませんっていう見本になっていた。タモさんばりのサングラスを掛けていたり、大笑いで顔を崩していたりして証明として認められない顔のパターンを沢山作っていた。みんなに分かり易く説明する為とは言え、うら若いお嬢様には酷だったんじゃなかろうか。それに、着ているリクルートスーツの原色感からも十年以上前に作ったものだろうと推察される、十年以上自分の認められない顔をみなさんに身を以って教えてくれているあの女性はとっても偉い、偉い、感謝するべき方だなと思いました。

  証明写真が全く証明になっていない人もいるんだろうね。僕だって十年前に十年期限のパスポートを取得していれば、その学生服を着た写真のパスポートを今も使う事になっていただろう。そりゃ証明になりませんよ。僕の音楽活動を、デビュー前から二人三脚で長く見ていて下さっているO.Y氏という方がおられるんですが、この方は体重の増減が激しい為、以前の車の免許証を見せてもらうと、とてもこの人の免許証だったんだとは思えなかったりする。それが、各書き換え期限の度に人が違うから証明写真って疑わしい。

  何はともあれ、久し振りに不安や緊張を誘う海外。とっても楽しみなんです。

サロンライヴでござんした 2004/7/19
 FM愛知のサロンライヴに足を運んでくれた方々、本当に有難うございました。基本的にラジオ向きではない僕の緩慢な喋りが公開収録に臨んで公開され、後悔収録になりはしないか心配でしたが、皆さんとの会話で随分と楽しい時間になりました。普段のライヴではなかなか皆さんの話を聞くって動作ができないので、ああやってお話できるのは素敵な時間でござんした、本当に。学園祭からナゴヤドームまで約束に立ち向かって行くよ。必ず、果たそう。必ず、果たそう。

山口君ちの組体操 2004/6/27
ヒューヒュー鳴る。
夏の先触れは蒸し暑い。
蒸し暑さに負けて、ボタンを押せば、
ヒューヒュー鳴る、僕んちのエアコン。

キューキューする。
空っぽの胃が、内臓に幅寄せのイジメを受けて、
キューキューする、山口君ちのストマッ君。
お腹が空いたねぇ。

そんなら、グーグーしよう。
早いとこ、グーグー言って眠ってしまおう。
今日の山口君ちでは日本語が通じない。
話せば話すほど、心がチンプンカンプンだと言います。
今日は心と口の喧嘩が絶えない。
よしっ、それなら通訳を呼びましょう、
なるほど、そうしましょう。
そして上手くなだめて頂きましょう。

誠に僭越ながらご指名に与りました、
口と心の同時通訳を務めますは喉でございます。
口の想いを心に唄って伝え、心の事情を口に唄わせて差し上げます。
そしたら仲良く山口君ちは、
グーグー眠るのでしょうかぁ、
子守唄になるでしょうか。

意地の悪い指だ、またエアコンのボタンを興味本位で押した、
ヒューヒュー鳴るよ、明日の朝、寒くって眼が醒めちゃうよ。
胃よ、やめなさい、
この期に及んでキューキュー鳴くのは。
むさぼっているように聞こえますよ。

みんな仲良く、折り重なって、
グーグーしたらいいじゃないか、
同じ山口君ちに居るんだから。
この世にあるうちは、
仲良く仲良く、グーグー眠りなさいな。

勝手に。 2004/6/24
 新宿のオープンカフェ、喫煙家は涼しい室内から蒸した梅雨空に追い出されてホットな珈琲を飲まなくてはならない時代になってしまった。僕は昨夜から今日一日、原因不明の左顔面の神経痛に悩まされている。故に気分痛快・爽快とはいかない散歩とティーブレイクではあるんだけども、妙に湿った穏やかさでオープンカフェのベンチに座っていた。

  以前から宣言している通り、僕は汗かきの寒がりという軟弱者だから、幾らお洒落なオープンカフェがあろうとも、都会の外気に触れながら珈琲を飲むという情緒は持ち合わせていない。今日の僕は、その街の風景の中で珈琲を飲む新鮮さのお陰で、潤んだ穏やかさを持てたんだろう。

  そして、通りの向こうのビルを見て、下から上まで舐め上げるように見詰めて、ビルを辱めてはまた珈琲を飲み、また煙草を飲んでいた。煙がフワッと、フラッと思い出す。今朝四時過ぎに眠ろうとして、薄れていく意識の底にテレビから流し込まれて来た暗いニュース達を思い出した。都会には無謀な危険が転がっている。そして僕はウルウルと勝手に、無責任に世の中を憂いてみた。思えば、個人の夢や希望、未来に対しては、僕は沢山気持ちを置いてきたし、何度もくじけては、また立ち上がったりしてきた。

  けど、ニホンという遺産に対して、夢や希望、この先に生きていく人達が住む未来の事を思って、くじけたり、立ち上がったりした事は正直にない。と言うよりもハナっから冷めていた気がする。今、世界で蜂起している若者達いる。彼等は、半面でテロリスト扱いをされて犯罪者のように見られているけど、やり方の問題があるにせよ、僕なんかよりはよっぽど志の高い人物である事は間違いない。彼等は自分達の国、或いは民族を守る理想を持ち、命の危険にさらされながら、夢と希望を持ち、くじけたり、また立ち上がったりしているんだと僕は思う。僕は、思うんだ。

  幕末から明治維新にかけて、諸外国からニホンが占領、或いは植民地になりそうになった事がある。その時に敏感に危機感を持ったのは十代、二十代の日本の若者達だ。彼等は辻斬り、捕殺といった命の危険を顧みずニホンの為、未来のニホンジンの為に、過激に立ち上がり、路傍や河原に倒れていった歴史がある。何か似ている。テロリストだと言われてしまっている若者達に。勝手にそう思った。

  さてさて果たして、今の僕にそういった事実が叩きつけられたらば、敏感に危機をつのらせ、立ち上がる事ができるだろうか。夢、どころではない、ニホンという遺産の為に立ち上がる事があるだろうか。いや、家族や愛する者の為に、矢っ張り立ち上がる、立ち上がりたい、と現実味なくヌック〜いオープンカフェで、ヨッこら煙草をくゆらせて、勝手に誓ってみた。所詮は机上の空論になって、行動の伴えない理論には結論がないし、無駄、ニセモノという言葉がよく似合う。よせよせ問答、by石川啄木である。

  もう一度言うけど、今日の僕は至極穏やかだ。考えている事と、神経痛と爆弾は抱えているけど、至って潤んだ幸福の中の一日を過ごしている。ふと眼を移せば、今日の道行く人達はとても凛として見える。みんなが活き活きと仕事をし、生き生きと歩き、話し、目的地に向かっている。僕は勝手な妄想を止めるべきなんだと、本格的に恥ずかしくなった。

  カフェの店員さんはバイト二日目で慣れてないそうだ。「でも、カフェみたいなお洒落な所でバイトしてたら楽しいでしょ?」という質問に「いやぁぁ…」と首をひねっていたけど、表情は屈託のない笑顔を持った青年で、目の前の仕事に眼一杯、イキイキしていた。いちいち自分が恥ずかしく思った、そんな勝手な一日だった。

『珍回答』 2004/6/20
(問1)「まさか、〜ろう」を使って文を作って下さい。
    (例)まさか、その歳でオネショはしないだろう。

   答え『まさかりかついだきんたろう』


(問2)「もしも〜なら、〜です」を使って文を作って下さい。
    (例)もしも明日が雨なら、オモラシはバレないです。

   答え『もしもし奈良県の者です』


(問3)「どんより」を使って文を作って下さい。
    (例)デートの日はいつも、どんよりした天気です。

   答え『うどんよりそばが好きです』


  上の回答集は、日本に住む外国の人達が日本語のテストで書いた答えだそうです。決して日本人では叩き出せない自由な日本語使用方法だと思います。生まれた頃から日本語に親しみ、日本語が得意で、そのくせ適当な日本語も使ってしまう日本人の方々は、この発想方法には学ぶところが多いと思います。

『あっ、雨が止んだ』 2004/6/12
 あぁ、雨が止んでいる。って、ふと傘を傾けた。
いつの間にか雨が止んでいる事に気付いて、傘の先にわずかに残った雫が落ちてくるのを待った。
  口がどうしても閉じれない。
コロンと転がった雫が靴に落ち、沁みて、ニンマリした。僕の靴は水溜りを避け損ない過ぎて、グッショリ靴下まで浸透している。今更、俺様の靴は雫一粒に左右されない靴に仕上がっているのだぞ。おぉ、雫よ、一粒よ。
ただ、今更このグショ濡れの靴に沁みた一粒を、僕は今夜見届けてやれた事は収穫であった。
  あぁ、星が出ている。
  でも、星は出てるんじゃあないなぁ。
ずっといつでも星は出ている。雲が隠しているか、いないかだ。
星は、朝から晩まで毎日出ている。おぉ、ちっぽけな地球一粒よ、人間よ。

  単純な心のやりとりに、少し今日は悟ったような人生観を重ねてみる。
  僕は約半年間に渡った参々クロゥス・ツアー、走りに走り回った半年ツアーを終わえてから、今の今まで、全く何事も手についていなかった。一種の熱中症のようなものであろうし、プールの後の授業の眠たさのようなものであろうし、好きな娘と初めてデートした後の一人の部屋のようなものでもある。手につかないどころじゃあない、何も考えれなかった。こうなると、とことん口が閉じれなくて、始終ポカーンと天井を見て時間が経つのを待ってしまう癖がある。テレビをつけても、どうにも全てのニュースに感傷的になる。
  俳優が自宅マンションから飛び降りたんだってね。転落?んん、何にしても悩んでいたんだろうなぁ。
  僕は横山やっさんの姿を思い出していた。やっさんがこんなような事を言っていた「もともと芸人っていう軟派な道に入ってきたんやから、軟派は軟派なりの考え方で以って生きていきゃええのに、立派な芸を持った人が、ちょっとしたトラブルで折れてしまう、或いは自殺してしまう。これはもう、むなしいっ!話やね!」芸人の主張ってので言ってた。生来のトラブルのメーカーが言ってるんだから間違いない。後にやっさんは暴漢に遭い、それまでの生気溢れんばかりの姿とは見間違えるほどにヨボヨボになってしまったけど、僕が印象的に残している姿は、その頃いたく痩せ衰えたやっさんが老人ホームの慰問をして漫才をしていた姿だ。老人ホームに入ったヨボヨボの爺さん婆さんを眼の前に、ヨボヨボのやっさんが上手く廻らない言葉で「またキー坊と漫才やらしてもらいますわ」とうわ言のように言っていた。芸人が芸人として生涯を全うした、僕の尊敬する有様だ。

  自殺かぁ、 もったいないなぁ、命がじゃあなくてだよ。そんなチャンスを逃して死んでしまうの?って思う。いい事も、悪い事も、今現実に起きて来る事は全て縁だろう。生涯の友に会う時も、大好きだった子と別れる時も、仕事で上手く運び出した時も、失敗が続いてぐうの音も出なくなる時も、全ては同じ、今に直面している自分を見つめられるチャンスなんだ。自分の正体を知るチャンスなんだ。長く荒涼とした生活の中で自殺したく思う時もあるだろうけど、その時は生きるチャンスだと思って差し支えない。恥ずかしながら僕も幾度か自殺の衝動をもよおしたことがある。包丁を手首にあててニヤニヤ笑っていた。でも、結局生きている幸せにかなわなかった。生きていれば、という期待にかなわなかった。だから、自分を考えたし、どうして一つ唄という芸の前に足がすくんで「出来ない、出来ない」と追い詰めてしまう癖の根源を探した。これは僕のデビューへのチャンスになり、今こうしてCDを出させてもらってる幸せになっている。
  でも、よくよく考えて見ると、だいたい生死の問題は全て天の為せる事であり、たかだか人間が辛いだの、苦しいだので判断してはいけないものなんだろう。生きようとして全力を尽くしている人がいる、ハンデを背負って明るく生きる人がいる。縁、時間が自分を呼んでくれる時に死のう。ただ、人間にできる事は、そのように生に執着していく事なのかもね。

半年のツアーを終えて 2004/5/28
 まず、この参々クロゥスツアーで無事に日本諸国を唄い廻れた事は、各地に見に来てくれた人達、対バンで競演してくれた皆さん、そしてそれを支えて頂いた各関係者の皆様のお陰でした。本当に感謝しております。誠に有難うございました。想えば、参々クロゥスツアー車が走り出したのは、まだ各地に雪が降り積もる一月の末でしたので、時の流れというものには感服せざるを得ません。初日松江のデニーズの駐車場で仮眠をとるところがツアーのスタートでしたので、長かったなぁと正直に思います。約半年間の唄い旅の中で、多くの友人を作ることが出来、これは本当に幸せな事です。何度も言いますが、CDやMDといった文明が発達していない時代であれば、我々唄い手という生き物は旅興行をして実際に人前で唄い伝え歩く事が本業ですので、この旅に僕が唄に信じれたものは大きいです。矢張り、足を達者にして出切るだけの喉を枯らして歩く事だなと思っています。幸い僕を支えてくれるワタイチ君も健脚の持ち主ですし、力の続く限りは皆様の土地を歩き回れたらなと思ってます。
  こんな物に溢れた世の中で、何か一つ強烈な決心がなければ生き抜いていく事は困難でしょう。まして相手は飽くなき夢です。僕みたいなとぼけたズボラ者でもそう思うのです。腹の中にいつもそいつがあれば、多少の空腹にも耐え得るだろうし、ステージ前に極度の緊張にも胃を落ち着かせる事ができるのでしょう。僕はその覚悟を旅に見つけて、そこに精進しようと気付きました。
  人間、運良く色男に生まれる奴もいる。まかり間違って美人に生まれてしまった方もいる。何故か運動能力がある人間が生まれ、学力のある奴もいる。嘘の名人に生まれた奴もいれば、正直誠実に死んでいく人もいる。何かにつけ、与えられた才能は誇れるようなものではない。生まれた時に母や父に、もしくは神かも知れないが、頂いたものに過ぎない。それらの才能を誇りに変えるには継続ということでしかない。継続という事には、どうしようもなく自分の努力がなくば成り立っていかないからだ。与えられた才能に継続という自分の努力を臭みとして付着させていく事によって芸として成り立っていくのだろう。そういう続けている事の尊さを忘れて人の才能を妬んではいけないし、よくよく見たらその才能は妬むほどのものでもないのかもしれない。僕は僕を見つける為に、唄という芸に自分の努力の臭みをつけていくよう精進しようと、改めて感じたツアー・参々クロゥスでございました。

うつろぎ旅 2004/4/30
 午後七時と半分を廻った頃、京都から東京に戻った。京都で「かたつむり大作戦」という作戦に参歌して、その後東京までの帰りの新幹線の中、座席に着くなり551のぶたまんを二つ口に放り込んだ。この旅は何を目的に何を得ようとしているのか、何かが変わりつつあるんだろうか?あっちこっちと想いを馳せて、声も少しずつは枯れてきている。車窓に300キロ近い速度で街や景色は飛んで行くが、空だけはグッと落ち着いて新幹線如きのスピードに飛ばされる事無く、泰然と横たわっている。あてど無い想いに涙が落ちた。と僕は思ったのだが、ただ単にぶたまんのからしが多すぎた為に落ちた涙だった。いい加減な男だと自分でも呆れてしまい、あとは東京まで泥のように眠った。
  東京駅、2泊分の旅装とギター2本の重みが両肩にズッシリ伸し掛かる。何とか地下鉄を乗り継いで家まで帰らなくちゃいけない。駅を歩く。この旅でスッカリ人の波を縫い歩いて目的地にスマートに向かうことが出来なくなっている。とにかく人にぶつかる、ゆずり合うが見つめ合う。全く前に進めない。ギター2本にリュックじゃ自分が三人分の大きさになっている事も考慮しなくちゃならない。
  僕がステージ上で弾いているギターはナショナルというメーカーのギターで年代は1950年代に作られたギターだから、爺さんと言っていい。僕のずっと上の先輩になる。僕は恐れ多くもこの先輩と2年近く一緒にステージに上がっている。どんなステージも僕等は一緒に上がる、一緒に喜び、一緒に恥をかく。デビュー前もデビュー後も、このギター一本の弾き語りのステージを越してきている。僕が押し潰されそうな緊張で力んだ弾き方をする時も、このナショナルのギターが受け止めて来てくれている。失敗も喜びもステージ上で分かち合えるのは僕の場合はこのギターしかいない。
  それを想えば、忙しく立ち回るこの日々、僕の不甲斐なさは置いといて、このナショナルのギター2本達の健闘ぶりにはとても感謝している。少し休むかい?僕ん家で。マネージャーのワタイチ君には「探さないで下さい」と伝えてある。
  当分独りでいたいなぁと想像した。そして、地下鉄に乗り込んだ。僕等は幅を取りすぎるから座席に座れない、真っ暗なコンクリートに蛍光灯がヒュンヒュン飛んで行く地下鉄の車窓をボケッと見詰めて、あてど無い想いに汗ばっかりにじむ。そこへふとマネージャーのワタイチ君からメールが来る。『明日は朝八時半に羽田空港に待ち合わせましょう』との連絡、どうやら僕は明日の朝には札幌に行くようだ。無言で見詰める事しばし、一つニヤリと笑って消去した。僕の悪い癖だ、返信する事は5秒後には忘れている。

ちょいと前の早朝のニュース 2004/3/30
 3rd singleのレコーディングを終えて、ツアーの忙しさからも少しの間だけ開放され、さあ何も考えないゴユックリな寝坊を企てていた或る朝の話。意に反して朝八時頃に電話が鳴った。僕の平和な寝坊計画はこの電話によって失敗に終わった。失敗も失敗、朝八時なんて早さには大失敗と言う外ない。定説通りミュージシャンの朝は遅い、僕も一応ミュージシャンではあるだろうから、その定説に従って朝八時に起きるなんて事はしていないのだ。
  「あんたがテレビに出とるよ!」いきなり実家の母親からだった。
  「いや、俺なら寝とるよ」と東京の息子が答えた。
  母:「あんたの話やないわ」
  子:「じゃあ誰がテレビに出とるの?」
  母:「あんたやわ」
  子:「俺は寝とる」
  母:「あんたの話やないて」
  子:「これは俺の電話やけど、誰に電話を掛けたつもりやったの?」
  母:「寝惚けとらんと、ええからテレビをつけて見やぁ」
  子:「テレビ?」
  母:「トリビュートの話がやっとるで」
  子:「あぁ、尾崎さんの?」
  母:「そう、それそれ」
どうやら、朝のニュースで尾崎豊さんのトリビュートアルバムの特集をしているらしかった。が、僕も寝惚けていたから話が噛み合わないまま電話を切った。

  折角ゆるゆると春眠をむさぼっていたのに、朝から要領を得ない山口家の動揺に岐阜弁で対応する羽目になり、僕はスッカリ眼を醒ました。うろうろテレビをつけて見ると軽部さんの丸眼鏡と丸顔が映った。確かにトリビュートの話をしている。が、山口晶の顔は見当たらなかった。ふぅん、まぁ出演した覚えのない番組を見ても僕が出てくる訳がなかろうと思い、軽部さんのいつもの蝶ネクタイをぼぅっと眺めていた。そうか、誰が唄ってますって事くらいは言っただろうから、それで名前くらいは言ったのかなぁと思った。にしても、気を抜いていたいつもの山口家の朝の、何気なくついているテレビの中の、蝶ネクタイの軽部さんの口から、いきなりよく知った息子の名前が出たら「あれぇ!」ってなる。その家族の顔を思うとどうにも笑えて仕方がない。クスクスやっていると、エンタメニュースが終わった。僕は結局僕を探せず仕舞いだったけど、充分楽しめた。『街路樹』という既に世に受け入れられている曲を、今一度不肖山口晶が唄う作業に心を砕いて、心配して、気も遣って、何とか唄って、その最初の実感がこの山口家の動揺だからもう笑えて仕方がない。少しクスクスやっていると、またまたスッカリ眠くなって、僕は二度寝の旅に出た。
というように尾崎豊さんのトリビュートアルバムが発表されている良き日に、不届き千万な朝の過ごし方をしてしまいました。

  僕のような者が、今回、尾崎豊さんのトリビュートアルバムに参加させて頂いた事を、とても感謝しています。そして、尾崎さんの唄をきっかけに僕の唄に一寸でも心を留めて下さった方に、心からお礼を申し上げます。みなさんが今まで静かにあたためていた色んな想いに、僕の声が少しでも新しい便りをお届けする事ができていたなら幸いに思います。

大好き 2004/3/19
 今日一日は、部屋から一歩も外に出なかった。ツアーと3rd single制作の谷間のぽっかりした久し振りの休日を僕はやっと独り占めする事が出来たんだよ。久し振りに昼寝もした、少しくらい出掛けてもいいかなと思ったけど、井上揚水のように傘がなかった。でも、会いに行かなくちゃならない人も今日はいなかったから、いいんだ。時間って実感という洒落を思いついてしまうほど今日の僕は抜け殻になって、時間に反抗しない。時間の隙間を一生懸命探すような事はしない。昨日3rd singleを作り終えました。ツアー中も含めて、ずっと頭を悩ませて、体力と時間の限界まで我侭に使って完成させたから、こんな一日が内気な僕には、とっても必要なんだ。春がもう一週間もしないうちに僕んちに遊びに来てくれるって連絡があったから、僕は身体と心を整えておかなくちゃいけない。先ずはこうして口を開けっ放しにして、座椅子からキッチンをみたり、ギターを見たり、外の天気を予想して、そんな暮らし方、今日の暮らし方。
  メール、BBSへの書き込み有難う。今日もゆっくり始めっから読み返して、旅の景色と君の顔を思い出してたんだよ。伝えたい事は一杯さ。だけど、大好きですの一言を心から言いたい。その街、この町で知り合って、お世話になって、いっつも僕は上手にお礼を言えなかったり、うまくうちとけたくても緊張してできなかったりしてしまう。そんな伝え切れなかった想いの残り香を今日沢山考えた。その想いをひっくるめて、本当に大好きです。また、会おうね。
雨が止んだ気がする。

ペコパヨ 2004/2/6
 2月6日。揺れる新幹線、大阪から博多に向かっています。この移動はキャラバンカーじゃないのさ。中国地方のご名産弁当の匂いの中、ノムノム・ペコパヨ(唯一知っている韓国語です、お腹が空いたよ〜の意)でぼやいています。
 何しろこの『参々CROSS』ツアー、何度も言いますがさんざん苦労するツアーにしようという意味合いを持っているんです。が、それとはまた別でもう一つ意味を持っていまして、まぁこの冬真っ盛りだから、先ずは南に向かって暖かい場所から行こうよ、それこそサザンクロスを目指すぜぃと言ってはいたんです。が、これまた、昨日の大阪も、その前の博多も雪が降って異常に寒い。土地の人に聞くと「いつもは、こんな寒くないんだけどね」だそうな。さんざん苦労しようなんて格好のいいこと言いながら、暖かい南を目指した僕等の根性が叩き直されている感がありますね、ア〜・シコシ(昨夜の大阪でハンサムカチョーさんから頂いた言葉です、A LITTLEがA 少し、に変化して、また更に東北なまりをないまぜにしてア〜・シコシと完成形)反省です。寒さに耐えていかねば。
  そうそう、先日のBBSに八雲庵のお蕎麦が美味しいとの書き込みがありましたが、八雲庵の本館の方ですね。松江で僕は薦められた一色庵というお店でお蕎麦を頂こうとしたんですが、あいにくの定休日でした。その一色庵の構えからして非常にそそられる老舗感、骨董感があってとても食べたかったのですが、定休日でした、さぞかし落ち込みました。定休日と言えば2月3日の長崎で、今度はチャンポンand皿うどんの美味しい店があるとイタミ氏に誘われ、眼鏡橋近くの共楽園というお店に行ったんですが、これまた定休日。こんなノムノム・ペコパヨな話がこの旅には付いて回っているようです。忙しく歩き回るツアー生活の中でア〜・シコシの楽しみなんですが、空振っています。

八雲庵にて 2004/2/1
 ツアーが始まったのです。今や、博多にいて五日ほどは過ぎようとしているのですがね。参々CROSSとはよく名付けたもので、初日東京から松江市まで約800キロの距離を車で夜走りするスタートは、さすがにさんざん苦労する、よーいドン!はっけよーい、のこった!ツアーが始まったのです。
  松江市には午前六時頃に着いて、仮眠を取る所を探してはみたもののこれが全く見つからず、ファミリーレストランの駐車場でマネージャーの太一君と共に車中で眠るという妖しさ満点の出だし。この先、この二人で日本各地に回るんだけど、この妖しさの中、間違いが起こらぬよう切に祈るばかりである。何しろ僕はペーパードライバーの身分であるから運転は太一君に任せっきりなのだ。運転できない事はきっとないんだろうけども、ペーパードライバーのA級ライセンスを僕は苦労して取得したので助手席のムード作りの方が得意なんです。その実力を生かして、東京から松江市まで約八時間の長い道中は、助手席で居眠りしたり、太一君の寒い冗談にも答え忘れたりさせてもらった訳です。こういった努力が実って、僕はこのファミリーレストランの駐車場での仮眠は、さほど眠ることも出来ず、スヤスヤ眠る太一君を車中に置いて松江市内の観光に出ました。あまりゆっくり回るほどの時間は無かったのですが、小泉八雲の旧居、武家屋敷、松江城を観る事ができました。
  とにかく雪が積もっていて、久しぶりの雪道に足をとられ、靴は濡れるし、勿論寒いし、難儀な観光でありました。突如雪が降り出し「しまったなぁ」と独り言をぼやけば止み、「たすかったぁ」とつぶやけば、また降り出すという天気の中、否が応でも旅に出たんだっていう実感が迫ってくる。松江城下の武家屋敷を観ている時のこと、武家屋敷の台所の方から井戸と庭の向こうに茶室が見えた。「八雲庵・別館」と看板が出ていて、「抹茶」と大書した紙が窓に貼ってある。「休むか。こいつはきっと暖かい」小一時間は凍えていた僕は、その店内に鎮座されている石油ストーブに非常にときめいた。正に砂漠の中で畳を見つけた気分だ。庭はあまり人が踏み入れておらず、一人分の足跡しかない。その足跡が僕の足下からまっすぐ「八雲庵・別館」に辿り着いている。「それならば導かれるままに八雲庵でお抹茶を頂こうじゃないか」と我が風流さを奮い立たせたのだが、だがである。小さい頃は長靴履いて、なるべく人の足が踏み入れてない真っ新の雪を飛び上がって踏み散らかして喜んでいたのに、ここまで人間が真っ新じゃなくなるとひ弱なもんで、僕は慎重にその先人の足跡に足を合わせて雪に靴がキスしてしまわないように心掛けてヨチヨチフラフラ、その姿は哀愁漂うご隠居歩き。八雲庵までの5M程を何とか歩ききった。ノのだけど、けど足跡のサイズが小さくて、馬鹿の大足と呼ばれる僕の靴は苦労の割には、結局雪のキスやハグの歓迎を受けてしまって、嬉し悲しで更に濡れていた。店に入ると一人のオバチャンが居て店を切り盛りしながら、僕のヨチヨチ歩きを不思議そうに見ていた。僕が何に苦心しているのか理解に苦しんでいる様子だった。僕の他は客はいない。そうか、そうだ、ここまで僕を導いてくれた足跡の持ち主はきっとこのオバチャンなんだろう。僕は念願道理お抹茶を所望し、それをゆっくり頂いて念願を成就させた。なーんだか、ツアー初っぱなからぽっつり独りになったなぁ。気持ちが少し「寂しいかもよ」って言っていて、僕はそれを打ち消すようにゆったりと抹茶を喉に流し込んでいった。辺りは雪の静けさで無駄口を叩く奴もいない、そしてお抹茶のほのかな苦みが僕の心の無駄口も塞いでくれて、頭の中が散らかったまま出発してきた僕は落ち着きを取り戻すことがやっとできたんだよ。ふと窓の外を見るとちょっとした竹林が見える。僕はどんどん風流な気分になっていく。まっすぐ伸びた竹の足下を雪がなめらかに覆っている。まっすぐ伸びた竹、葉と枝のしなやかな竹に雪は積もることなく、足下の土まで降り下りる事ができるんかなぁ、ってどうでもいい事に興味を持って「ふんふん」と感心する。それが竹の優しさか、雪の可愛らしさか、「ふんふん」「ふんふん」詩人になった気でいる。で、事のついでに中学生の時に授業で読んだ萩原朔太郎の「竹」という詩を、ゆっくり目を閉じて思い出す、が、思い出せない。「まっすぐ」って書いてあったんじゃないかなぁ、ってところで完全に記憶が止まってしまう。「ふんふん、うんうん、うーんノ無理!」思い出せないまま、お抹茶にもう一っちょ手を掛けてズズ。背をピンと伸ばして竹に気分を合わせてみようと思うんだけど、どだい根性のねじ曲がった人間であるから五分と保たない。なんだかなぁ、で風流気分に少し限界を感じ始めると竹林の一団の塀際に追い込められた一本の細長い竹を発見。こいつは細い、し長い、し曲がっている。僕はとっても親近感を覚えた。「ええよなぁ、俺等はこんなんして生きてったら、ええよなぁ」って勇気と開き直りが始まり「ふんふん」「ふんふん」納得してお抹茶をズズイッと飲み干した。さて、こんな旅の始まりに、こんな勇気を携えて、サンザンクロウスルツアーのお通りだい!

小っちゃな街の夜の地図 2004/1/23
 寒さが身を縛る、非常に窮屈な季節です。先日は、大阪・京都・兵庫・滋賀にお邪魔してキャンペーンして参りました。どうにも独りでは叶わない事を各地で色んな方々にお世話になっていますので、まず感謝、そして感謝のキャンペーンです。そして、色んな形で「山口晶?誰やねん」と思ってもらえて光栄に思います。僕はただ唄を唄う本分ですから、それ以上のおまけはござんせん。またアルバムリリースを迎えて、自分が誠実に向き合った唄達が色んな人達の耳に届いて、一つでも何かの感情を思い出すきっかけになれたら、それで光栄なんです。「こんなくだらん事を唄って、阿呆やな、クスクスっ」ってしてもらえれば、なおの事光栄でんな。このアルバム『夜の地図』は古本屋さんで見つけた掘り出し物の単行本みたいな味わいで、みなさんの生活のどっかしら一瞬を潤したり、生活にないがしろにされた一瞬の風景を写したりできたらなぁと願っております。
  僕がつむぎ出した小っちゃな街の夜の地図が、みなさんによって広くなって楽しい街になっていっているのを実感しています。この妄想の結晶のような街に、細かいルールはなく、出入り自由ですから、自由にしていって下さいな。足を休めてって下さいな。時間を忘れてみて下さいな。自分の名前を忘れてみて下さいな。あっかんべーの挨拶で始まる仲もあるもんです。せいのっ!で一緒に舌出して、笑い合ってるだけで二重マル。そんな信念でおります。

慕夜け、慕夜明け、早よ慕夜け! 2004/1/16
 明けましています。おめでとうございました。新年明けて、ツアーの準備、その他ウンヌンカンヌンになってハリキリおります。今年もすっかり2004年なんで、2で割って1002年、更に2で割って501年、殊更に2で割り続けて250年、で、もういっちょ2で割るかで125年、あと一息2で割って62年、さてラストの2で割りますかで31年、これでおおよそ僕の世代になる。何故に2で割り続けてしまったか自分でも計り知れませんが、一体、地球は何回ほど廻るつもりなのか?と思う訳です。僕の知り得る限りでは、地球は太陽の周りを28回廻って地球自身は10300回ほど回転したようです。これは僕の実感し得た回数ね。人によって違うだろうから、また異次元な面白さだ。そして、今夜も良く晴れた星空の元、慕夜いているのだもの、久し振りだな。この季節、毎年のように冬眠し易いので、正月明けてから、割と人間らしく夜は更かさず早目に寝ていたら、やまプチらしくなくなっていくと云う身体の矛盾を抱えてしまいました。何故寒いと眠くなるのだろう?動物である証拠なんだろうか?人間の祖先は冬眠しなかったのか?異次元、異次元。しかし、しかし、今年のこの時間はとてもとてもそうは言ってられない、21日にはアルバムが発売されるのだ。あっちゃこっちゃ、みんなに会いに行かねば。行くのだぞぅ。今年も宜しくね、ハリキリ生きます、ハツラツ生きます。良い年、良い年。

 
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